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   <title>情報通信学会第23回学会大会</title>
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   <published>2006-06-23T18:05:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T13:45:06Z</updated>
   
   <summary>マルチメディア研究会研究発表「どうなるこれからの情報格差社会」 目白大学人文学部...</summary>
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         <category term="その他の論文・レポート" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      マルチメディア研究会研究発表「どうなるこれからの情報格差社会」
目白大学人文学部助教授
江下雅之

      <![CDATA[<h1 class="tit1">監視社会化を進める情報格差のもう一つの側面<br />
—テクノロジーの遍在と情報の偏在—</h1>

<h2 class="tit2">1　情報格差の問題意識</h2>
<p>
　情報格差の議論では「多数の強者に対する少数の弱者」という構図が一般的である。情報「格差」問題とは情報「弱者」問題にほかならない。そのスタンスは、政府のe-Japan重点計画やIT基本法においても明確だ。情報格差の是正とは「地理的情報格差の是正」であり、「年齢・身体的な条件の克服」とされている。<br />
　しかし、この構図は格差の一側面にすぎない。たとえば所得格差における大きな争点の一つは、少数者による資源の寡占である。また、所得格差においても情報格差においても、実際には「強者—弱者」という単純な二分法が成立するわけではなく、一定の厚みのある中間層が存在するはずである。つまるところ、情報格差を論じるに際して、「強者—中間層—弱者」という構造のなかで、「中間層—弱者」に着目するのが情報「弱者」問題であり、「強者—中間層」に焦点をあてるときが情報「強者」問題といえるのではないか。<br />
　一般的には、情報格差問題の議論ではインフラ整備等に取り残された地域・人への対処が問われる点において、問題の主たる対象は情報「弱者」である。しかしながら、技術開発面あるいは情報流通面において少数の圧倒的な強者が存在する。そしてICTが社会に浸透した現在、強者という立場は自由競争下における個人や企業の努力の結果としてのみ受容できる問題ではなくなっている。
</p>

<h2 class="tit2">2　少数の強者の独占的地位と問題点</h2>
<p>
　情報強者の存在は、ビジネス面においてすでに多くの問題を提起している。コンテンツビジネスにおいて供給者が講じているDRMは典型的な例といえよう。フランスでは消費者団体がDRM技術の公開を求め、アップル・コンピュータおよびソニーを提訴した。また、ソニーBMGが音楽CDのコピー防止のため「rootkit」を組み込んだ事は、ウイルス問題の視点から激しく非難された。そしてソフトウェア業界の強者である米国マイクロソフト社は、そのビジネスが独占的地位を利用したものとしてしばしば訴訟されている。これもまた少数の強者の存在と問題点の一端を示しているといえよう。<br />
　ICTが一般個人の日常生活面にまで浸透する過程において、技術のブラックボックス化が進展した。技術をコントロールしうるのは専門知識を有する者の特権となっている。その結果、末端消費者レベルにおいては技術を批判的に取捨選択することが困難なケースが生じ、何らかのリスクをはらんだ状態での利用を余儀なくされる場合がある。コンテンツビジネスにおけるDRM技術をめぐる問題はその一例だ。<br />
　情報インフラの整備、マイクロチップや携帯電話などの端末の普及により、情報の発信ノードが広範な範囲に浸透したと同時に、個々のノードがリンクされた。その結果、末端利用者は高度なサービスを享受できるのと同時に、ネットワークを管理する者が常時監視可能な状況に置かれた。利便性の享受と監視の受容とが両義的な側面であるとの指摘は、監視社会論の基本的な問題提起である。
</p>

<h2 class="tit2">3　今後の課題</h2>
<p>
　ICTの社会レベルでの浸透において技術のブラックボックス化は不可避である。また、技術革新がめまぐるしいこの分野においては市場に参入するプレイヤーの競争もまた不可避である。しかし、その結果として技術的な独占や情報流通面での支配的な地位の獲得が進展している。ICTの遍在は同時に情報の偏在化をもたらしたのだ。<br />
　こうした状況において、米国では情報機関・捜査機関によって民間企業の情報システムを包含したデータマイニング・システムの構築が図られている。また、情報通信、流通、情報サービス等の事業においてもネットワーク利便性を背景とした優位性の固定化、一般個人のインターネット利用においても特定のカリスマ的存在による世論誘導などが顕在化している。<br />
　監視社会化とは、一方のグループが他方のグループを制御する状況の固定化にほかならない。そして近年の電子的監視においては、監視の両義性のもと、制御される側が制御を他者に委託する点にこそ推進要因が存在する。そうである以上、監視的状況への対処にあたっては、各個人が情報流通面で社会とのかかわりを深めることが不可欠である。これまでに情報「弱者」への対処としておこなわれてきた事例においては、社会的な問題を共有するだけでなく、その解決スキルを共有し、さらに実践自体をも共有することが進められている（本報告における川村晶子氏の報告を参照）。とりわけ中間層に位置する人たちが実践に関与することによって、地域レベルで互酬的なネットワーク型組織が形成される点は、利便性の享受と監視の受容という展開とは正反対の方向性を持っている。その意味において、情報「弱者」問題のみならず情報「強者」問題においても効果的な対処法として注目できるのではないか。
</p>
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   <title>書評『「ケータイ・ネット」を……』</title>
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   <published>2006-02-24T17:03:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T13:49:03Z</updated>
   
   <summary>書評『「ケータイ・ネット」を駆使する子ども、不安な大人』 （渋井哲也/著、長崎出...</summary>
   <author>
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         <category term="その他の原稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      <![CDATA[書評『<a href="http://www.amazon.co.jp/ケータイ・ネットを駆使する子ども、不安な大人―肥大化するインターネット。コミュニケーション装置としての功罪-渋井-哲也/dp/4860950976/sr=8-4/qid=1168091266/ref=sr_1_4/503-1397363-9051163?ie=UTF8&s=books">「ケータイ・ネット」を駆使する子ども、不安な大人</a>』
（渋井哲也/著、長崎出版、2006年）
図書新聞（図書新聞社）2006年2月25日掲載
江下雅之
]]>
      <![CDATA[<h1 class="tit1">ケータイ・ネット世代の日常的ネットワーク・ライフを直視する<br />
良識的なオトナたちの安直なネット悪玉論に対する誠実な問題提起</h1>
<p>
　あらゆる犯罪は不幸な出来事ではあるが、子どもが被害に遭う殺人事件ほど、社会にとって辛く悲しいことはない。そして、加害者までもが子どもであるような場合、我々はただひたすら衝撃を受け、とまどい、やがて恐怖にかられる。とりわけ子どもを持つ親にとって、それは二重の恐怖となる。自分の子どもが犠牲者になるかもしれない恐怖、そして我が子が加害者となるかもしれない恐怖だ。二重の恐怖に駆られた親たちや社会は、無惨な事件を防止する即効性のある対策と、事件に至らしめた要因に関するわかりやすい説明をせっかちに求める。こうした心理的な構図のもと、ここ数年、さまざまな事件の主たる要因として取り上げられ、対策の標的とされてきているのが、インターネットや携帯電話というコミュニケーション道具である。<br />
　本書の土台は、安直なネット悪玉論に対する問題提起である。インターネットやケータイは道具である、という認識をかかげたうえで、具体的な事例を注意深く紹介している。言及されている事例には、社会に大きな衝撃を与えたものが多い。まさしくネット悪玉論の文脈で取り上げられたものばかりだ。しかし、本書で著者が一貫して取っているスタンスは、「道具をうまく使いこなすためには、コミュニケーションの特性を理解し、過剰に期待せず、少なからずの警戒心は必要だ。あくまでもネットは道具にすぎない」（本書112.p）という主張に集約される。自動車とて、うまく使いこなすことができなければ凶器であるが、単純な自動車悪玉論が意味をなさないのとおなじく、安直なケータイ・ネット悪玉論も短絡にすぎない。衝撃的な事件とケータイ・ネットとの関わりが認められる場合であっても、いかなる特性が事件の経緯に結びついているのかを理解すべきなのだ。しかし、本書で繰り返し指摘されているように、世間は手っ取り早い説明を求め、対症療法的な対応策を志向してしまうのである。<br />
　本書の第一章で取り上げられた事例、二〇〇四年六月に発生した長崎県佐世保市の小六女児殺害事件は、まさしく子どもによる子どもの殺人事件であり、インターネット上の日記や電子掲示板での書き込みをめぐるトラブルが殺意を抱くに至らしめた、と論じられたものだ。しかし、コミュニケーションのすれ違いにもとづく感情的なしこりが殺意にまで過熱するという事例は、絶対数は少ないとはいえ、手紙でのやりとりでも電話での会話でも十分に起きうることである。ましてや、この事件では加害少女と被害者とは同級生であり、日常的に行動をともにしていた。ケータイ・ネットでとかく非難の対象となる匿名性の問題とは無縁だったのである。<br />
　にもかかわらず、マスコミ報道も含めて世の中の多くの意見はインターネットを悪玉に仕立て上げた。それが意味することは、大人たちにとって、ネット悪玉論が非常にわかりやすく納得しやすい説明である、ということである。たしかに、インターネットやケータイのような新しい技術的手段が犯罪に対して完全に中立であるとはいわない。インターネットなどの普及によって、ある種の犯罪的行為が実現しやすくなったことは事実として認めるべきだろう。自殺志願者どうしがいわゆる自殺系サイトで知り合って集団心中をする、あるいは自殺志願者を装って殺人を実行するといった事件は、インターネットが加害者と被害者の接点をもたらしたと考えるのが自然だろう。他方、本書の第二章で言及されているように、子ども時代からケータイ・ネットに接してきた世代にとって、それは同時に日常的なコミュニケーション空間でもあるのだ。<br />
　そもそもケータイ・ネットに対する認識は、世代間のギャップが大きい。おおざっぱに分類すれば、これらの道具とは無縁にライフスタイルを確立した昭和二〇年代生まれまでの世代、成人になってから仕事の道具として利用するようになった昭和三〇年代・四〇年代生まれの世代、そして子ども時代から日常的な道具として慣れ親しんだ昭和五〇年代生まれ以降の世代に分けることができ、それぞれの世代によってケータイ・ネットに対する認識は異なる。当然ながら、上の世代に行くほど若者たちの日常的なケータイ・ネットのコミュニケーション活動は理解不能でいかがわしい行為に映るだろう。<br />
　こうしたギャップこそが、ケータイ・ネットを悪玉に仕立て上げる発想の根幹にある。上の世代にとって、自分たちが青年期にケータイ・ネットを日常的に利用した経験を持たぬがゆえに、ケータイ・ネット世代に対し、みずからの経験にもとづく指導なり助言なりを与えることができない。そもそもケータイ・ネットをさして利用せずにライフスタイルを確立している以上、それを有害無益と断じてしまうこともあろう。他方、子どもたちはケータイ・ネットを日常的に扱う習慣を持ってはいても、人間関係のさまざまな軋轢に対処するだけの人生経験を持たない。現代のケータイ・ネットにおける最大の問題点は、「大人の知恵」が確立されていない点にあるのだ。だからこそ、ケータイ・ネットになじみの薄い世代ほど、そこでは日常的に何が繰り広げられ、どのような展開が危険な事態につながるのかを知る必要がある。本書の第三章・第四章では、衝撃的な事件だけではなく、ケータイ・ネットでの日常的なコミュニケーション行動が丁寧に述べられている。<br />
　最後に著者は、ネットの規制をめぐる公的な対応のいくつかを批判的に取り上げている。ケータイ・ネットの日常を直視せず、理解不能な事件への恐怖に駆られてわかりやすい答えを求める人たちは、こうした規制をむしろ歓迎するだろう。それがいかに危険なことであり、かつ事態の本質から逸れているかということは、本書の豊富な事例を丹念に読めば、明確に理解できるはずである。
</p>
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   <title>住基ネット問題の根本とは何か</title>
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   <published>2005-07-31T18:02:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T13:08:48Z</updated>
   
   <summary>月刊世界（岩波書店/発行）2005年8月号pp.33-36 江下雅之 ...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="一般論文" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      月刊世界（岩波書店/発行）2005年8月号pp.33-36
江下雅之

      <![CDATA[<h2 class="tit2">住基ネットの概要と是非をめぐる訴訟</h2>
<p>
　住民基本台帳ネットワークシステム（通称「住基ネット」）とは、文字どおり、各市町村が居住関係を公的に証明する住民基本台帳をネットワークシステムで運営する仕組みだ。管理されるデータは、個人の氏名、生年月日、性別、現住所の四情報および各個人に割り当てられた固有の11桁コード（住民票コード）である。データベース本体は市町村で管理・運営されるが、ネットワークシステムは市町村／都道府県／全国の三つの階層構造のもとで運用されるため、全国どこからでも認証作業が可能である。システムが管理するデータは、行政機関による本人確認に使用され、その際、本人確認情報は市町村から都道府県、都道府県から指定情報処理機関（全国レベルのシステムを運営）に通知され、指定情報処理機関から行政機関に提供される仕組みだ。提供される情報は本人確認情報に限定され、情報の提供先および利用目的は住民基本台帳法で規定されている。<br />
　住基ネットは日本に居住する人々の個人情報を管理する巨大なシステムである。それゆえプライバシー問題が運用以前から論議されているが、現実には、社会保険庁の基礎年金番号、国家公安委員会の運転免許証、外務省のパスポートなど、多くの行政機関が膨大な個人情報を管理している。また、国税庁はすでに群を抜いた個人情報を保有しているほか、財務省は納税者番号制度の導入を検討している。住基ネットがあろうがなかろうが、国民の個人情報は行政機関が広汎に管理しているのである。とはいえ、網羅する範囲が日本国内の全居住者に及ぶという点で、住基ネットはかつてない巨大な個人情報管理システムと見なしてよかろう。<br />
　住基ネットによってプライバシーが侵害されたとする訴訟が全国十ヶ所以上の地方裁判所で争われている。そして2005年5月30日、金沢地方裁判所において、住基ネット離脱を求める原告の情報を住基ネットで利用することは、憲法13条にに反するとの判決が下りた。他方、その翌日に名古屋地裁では、ほぼ正反対の判決が下されている。もとよりこれらは地裁レベルの判断であり、住基ネットの運用に関する憲法判断は、最高裁まで争われることになるだろう。とはいえ、多くの法学者が違憲性を指摘し、地裁レベルとはいえ違憲判決が出たということは、留意しておく必要がある。憲法とは、国民と国家が交わす契約であるのだから、かりに最高裁で最終的に合憲判断がなされようと、住基ネットの運用は契約違反スレスレの行為なのだと認識すべきである。
</p>

<h2 class="tit2">おもな問題提起</h2>
<p>
　住基ネットに対して提起されている問題点は、おおむね次の四点が代表的だ。<br />
　まず第一に、国民監視の基幹システムになるという危惧である。プライバシーの侵害という批判は、この危惧に立脚するものだ。過去数年間、通信傍受法の施行や監視カメラの増大など、警察を中心とした国家による国民監視の動きが急展開している。これらのシステムと住基ネットとでは運営母体は異なるが、多くの国民は国家による個人情報管理の強化は共通する文脈に属するものとして警戒している。<br />
　第二に、住基ネットを運営する公務員のモラルへの不信があげられる。実際、政治家や有名タレントの年金未納問題が注目されたとき、社会保険庁職員による情報の「覗き見」が問題になった。イギリスにおける警察の監視カメラシステムの運営でも、捜査員による「覗き見」が問題視されており、この種の不信は根拠なき危惧とはいえない。<br />
　第三に、不正侵入による情報の流出や改竄などセキュリティに関する批判がある。住基ネットではないが、クレジットカード情報や顧客情報の流出が繰り返し生じている。データ流出はシステムを操作する職員の技術力やモラルにも関わる問題なので、セキュリティに関する危惧を完全に払拭するのは不可能だろう。また、住基ネットの末端ユーザが地方公共団体であり、市町村によって情報技術への対応力に差がある以上、セキュリティ水準の弱いところが「穴」となる危険性は否定できない。<br />
　第四の問題点として、住基ネットの構築および運営に関わるコストが業務の省力化や住民サービス向上に見合わないとする費用対効果への疑問がある。この点に関しては、いくつかの試算がおこなわれているが、現時点では投資に見合った効果はあがっていないと判断せざるをえない。<br />
　四つの主要な論点のなかで、私は費用対効果を特に注目する。なぜなら、他の三つの論点、すなわち監視、モラル、セキュリティなどの問題は、高度な情報システムを運営する以上、ある程度はリスクを覚悟しておかねばならないからだ。そうである以上、予想されるリスクに見合うだけの効果がえられるのか否かを基準に考えざるをえないのである。先に住基ネットの運用は、たとえ合憲とされたところで契約違反スレスレの行為であると指摘した。投資に見合う利点がないのなら、そうした綱渡りのようなリスクテイクは意味がない。逆に、利点が明確ならば、場合によっては契約内容を変更して（すなわち改憲）でも、とことん利点を追求するという選択肢もありうるはずである。
</p>

<h2 class="tit2">相矛盾する利点と制約</h2>
<p>
　ところが、費用対効果という視点から住基ネットの枠組みを眺めてみると、根本的な矛盾を内包していると判断せざるをえない。<br />
　住基ネットに登録されているデータそれ自体は、とりたてて個人を危険にさらすものではない。たとえば「小泉純一郎」という個人名と、それに対応する住民票コード番号が流出したところで、小泉某と数字の組合せがわかるだけである。しかし、小泉某の職業、現住所、年収、家族構成、クレジットカード番号などの情報が関連づけられ（いわゆるアンカリング）、そのうえでデータが流出しようものなら、小泉某の家族が営利誘拐の標的にさらされるかもしれないし、本人がカード詐欺にあうかもしれない。また、警察庁や国税庁、社会保険庁、外務省などの行政機関が、住民票コードを用いてそれぞれが保有する個人情報をアンカリングすれば、国民の知らぬところでさまざまな「ブラックリスト」が容易に作成できる。それはあらたな差別を生み出す社会的な仕分けにつながるだろう。情報の関連づけが大きな問題を発生させるからこそ、個人には、自己の情報がいかなる関連づけをされるかをコントロールする権利がある、と考えられるのである。<br />
　他方、情報の効果的な利用には、関連づけが不可欠である。そもそもネットワークシステムとは、多様な情報を迅速かつ多様な関連づけを実現するための道具である。さらに、充実した個人向けサービスを実現するには、プライバシーの領域に踏み込むことが不可避である。これは企業の顧客サービスを考えれば簡単に理解できることだ。気の利いたセールスマンは、顧客のプライベートな情報に精通しているものである。<br />
　住基ネットの場合、個人情報を保護すべく、情報の範囲や提供先、利用目的に制約を課している。そして住民基本台帳法に示されている事例は、恩給や共済年金、児童扶養手当の支給、無線局の許可や気象予報士の登録などをはじめ、国民生活の根幹をなす事柄とはいえないものがほとんどだ。これでは政府がいくら住基ネットの利点をうったえようと、国民に実感できるはずがない。住基ネットのサブシステムに位置づけられる住民基本台帳カード（住基カード）の発行枚数が平成17年3月末時点でわずか54万枚強（対住基人口比で0.4パーセント）という低水準にとどまっているのは、当然すぎる結果である。<br />
　個人情報保護に配慮すれば、費用対効果の大きなシステムなどできようがない。ところが、たいした利点を主張できない現行の住基ネットに対してすら、個人情報保護を危惧する訴訟が相次いでいる。こうしたシステムに、「契約違反スレスレ」の綱渡りをしてまで維持すべき価値があるとは私には考えられない。
</p>

<h2 class="tit2">目的が明確なシステムに向けた仕切直し</h2>
<p>
　住基ネットの根本的な問題は、システムの目的が抽象的にすぎる点にあるのではないか。むろん、住基ネットは本人確認のため「だけ」のシステムであるから、目的といっても、せいぜい「電子政府・電子自治体の基盤」程度のことしかいえまい。ところが、基盤という目的が与える印象は、住基ネットが行政機関の管理する個人情報をむすびつける土台になるのではないか、ということだ。だから、国民は住基ネットのありかたを警戒せずにはいられないし、その警戒ゆえに、住基ネットは基盤としての機能を果たせない、という自己矛盾を生じさせるのである。そもそも電子政府・電子自治体といっても、それは手段であって目的ではない。ＩＴを用いぬ業務であろうと、低コストで安全な仕組みが実現できるなら、そのほうが国民にとって利点は大きいはずである。<br />
　ネットワークシステムを構築するのであれば、具体的で明確な目的を志向すべきである。システム化が最も必要な業務として、たとえば年金および所得税の徴収がある。少子高齢化社会が急展開するいま、年金と所得税を公正かつ効率的に徴収するためのネットワークシステム基盤の整備が急務という論理は、けっしてこじつけではないはずだ。実際、住民票コードを年金業務に利用すべしという意見は出ている。しかし、住基ネットの利用範囲を拡大させることに私は反対だ。それでは歯止めが利かなくなってしまう。<br />
　私はなにも、住基ネットにかわる納税者番号管理システムのような仕組みをつくれと主張したいのではない。ここで年金と所得税をとりあげたのは、個人情報の取り扱いを考えるうえでのひとつの例として、である。要は、年金や所得税の効率的徴収をいった具体的な目的を志向することによってはじめて、システム化の利点と問題点との比較検討が可能になり、その結果として個人情報保護と個人情報利用との線引きが可能になる、と主張したいのだ。そうした論議のなかで、場合によっては社会保険庁と国税庁の統合といった組織の見直しも提起されていい。<br />
　我々が論議すべきネットワークシステムは、個人情報の関連づけが制御不能になりかねない「どのような認証業務にも用いることができる基盤システム」ではなく、特定の業務に特化して効率的な処理を実現できるシステムである。住基ネット構築に要した数百億円の投資は無駄になるかもしれないが、今後発生する膨大な管理コストを考えれば、仕切直しをちゅうちょすべきではない。<br />
（おわり）
</p>
]]>
   </content>
</entry>
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   <title>監視社会の新次元</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2005/07/post_18.html" />
   <id>tag:www.eshita-labo.org,2005:/articles//4.211</id>
   
   <published>2005-06-30T18:03:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T13:03:51Z</updated>
   
   <summary>監視社会の新次元　New dimensions on surveillance ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="その他の論文・レポート" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      監視社会の新次元　New dimensions on surveillance society
関西学院大学総合政策研究（関西学院大学総合政策部）
第20号（2005年7月）pp.206-207
 
江下雅之

      <![CDATA[<h1 class="tit1">監視社会の新次元　New dimensions on surveillance society</h1>
<h2 class="tit2">監視とテクノロジー</h2>
<p>
　監視社会は現代に突如として出現したのではない。古今東西を問わず、権力者は民衆をさまざまなかたちで監視してきた。マイノリティの迫害という、多数派による少数派への監視という形態も存在する。しかし、現代における監視社会という状況は、監視に用いられるテクノロジーをめぐる状況、そして監視の構造それ自体が従来とは異なる点に注目しなければならない。<br />
　もともと監視は人手と時間がかかる行動である。監視の「古典的」な構図の一つに、国家が秘密警察や諜報機関を動員して国民を監視するというかたちがある。この場合、一人で監視可能な人数には当然ながら限界がある以上、国民という規模をモニタリングの対象とするには、膨大な捜査員と予算が必要となるだろう。実際、旧東ドイツの秘密警察は、市民を網羅的に監視するために数十万人規模の秘密捜査員を雇っていたといわれる。他方、いかに労力がかかろうとも、権力者は必要とあらば監視の手間を惜しまないことは、９・１１以降の米国を見れば明白だ。<br />
　古来、テクノロジーの開発は省力化の恩恵を人類にもたらしているが、それは監視という作業でも例外ではない。携帯電話網やＧＰＳなどの情報インフラにくわえ、高度に発達した電子デバイス群のおかげで、監視作業を広範囲にわたって自動化できるようになった。それによって、人海戦術では到底不可能な監視が実現できるのである。一九七〇年代から八〇年代にかけて、米国は地球規模で通信傍受システムを構築してきた。「エシュロン」というコード名で知られるようになったそのシステムは、情報収集活動の省力化が重要な目的であった。そして米国の国防総省が二一世紀に入ってから構築を進めているＴＩＡ（Terrorism Information Awareness：テロ情報認知）と呼ばれるシステムは、情報分析官の業務を高度なレベルで省力化することを目指したものである。<br />
　しかし、テクノロジーがもたらした効果は、監視の省力化という作業レベルの変化にとどまらない。監視の次元そのものを転換した点に注目するべきである。
</p>

<h2 class="tit2">市民のテクノロジー武装</h2>
<p>
　監視テクノロジーの恩恵に浴するのは国家だけではない。市民の自衛行為に対しても、電子的な監視システムは省力化をもたらしている。たとえば小学校に通う子どもの安全を守るには、親が送迎する、スクールバスを用意する、地域住民がパトロールするなど、さまざまな対応策がある。ところが、このような手間のかかる手段にくらべ、校門に監視カメラを設置することのほうが、監視という作業に関わる労力の点で手軽である。また、不在中の留守番を近隣住民との人間関係に依存するのではなく、セキュリティ・サービスを利用するというのも、テクノロジーによる監視の省力化と捉えていいだろう。都市住民にとり、電子的監視は合理的な自衛手段なのだ。<br />
　もともと都市型ライフスタイルは監視テクノロジーを受け入れやすい素地を持つ。自分の都合や好みによって人間関係を極小化できる点が、都市型ライフスタイルの魅力だからだ。日ごろから隣近所の人々と緊密な交流をしていれば、いざというときに助けてもらうことも可能だろう。しかし、現代の都市社会においては、隣人は変質者かもしれないし、潜伏中の犯罪者かもしれない。どこにどういう人物がいるのかがわからない点は、都市の魅力であると同時に恐怖でもある。そうである以上、監視テクノロジーが都市生活を支える側面があることは否定できないのである。<br />
　監視テクノロジーによる自衛は、地域社会レベルでも着々と進行している。実際、いくらテクノロジーが進歩したところで、一個人の努力だけで治安が守れるわけではない。地域社会としての取り組みは不可欠だ。その結果として生じている現象の一つが、商店街や住宅地の監視カメラ群である。たしかに住民による自主的なパトロール活動のような人手をかけた努力が重ねられている地域はある。しかし、監視カメラの設置、それらのネットワーク化という監視テクノロジーの浸透は、衝撃的な犯罪が繰り返し報道される都度、多くの地域社会で導入されつつあるのだ。
</p>

<h2 class="tit2">三つのレベルと三つのパースペクティブ</h2>
<p>
　監視テクノロジーの浸透は三つのレベルで進行している。すなわち、国家あるいは超国家規模で運営されるグローバルな監視ネットワーク、地域社会レベルで構築・運営されるコミュニティを守ための監視ネットワーク、そして個人が自衛手段として駆使する監視システムである。<br />
　治安維持の枠組みが基本的に国家単位で形成される以上、監視体制にも国家レベルの規模が必要となる場面があって当然だ。さらに、国際的なテロリストや犯罪者集団の問題が深刻化している以上、自国の安全を守るためには、国の枠組みを超えた監視システムが不可欠である。実際、利害を共有する国家が連携することにより、超国家的な監視システムが制度面も含めて形成されている。テロ情報の相互運用、そのための通信傍受体制の整備、パスポートの個人認証方式の変更などは、その一貫と位置づけられる。<br />
　地域社会レベル、個人レベルの監視テクノロジーの浸透は前述した通りだ。重要なことは、この二レベルの監視が住民や個人の要望で導入される一方、実際には警察組織が関与し、国家レベルの監視システムに組み込まれつつある点だ。すなわち、「気がついてみたら国に強大な監視システムが形成されていた」という事態になりかねないのである。<br />
　一方、監視の構図を三つのパースペクティブから整理してみたい。<br />
　もともと監視という状況には、伝統的に二つの形態が存在する。一つは少数者が多数者を監視する「パノプティコン的（な状況）」であり、もう一つは多数者が少数者を監視する「シノプティコン的（な状況）」である。警察に治安の維持を委ね、そのための捜査ツールの利用を認めている状況も、パノプティコン的と形容してよかろう。また、圧倒的多数の「善良な」地域住民が犯罪予防のために自衛の体制を整えることは、シノプティコン的と捉えることが可能だ。むろん、監視のレベルとパースペクティブとはリンクされたものではなく、さまざまなレベルでさまざまなパースペクティブが錯綜している。ところが、現代の監視社会には、もう一つのパースペクティブが顕在化しているのである。<br />
　第三のパースペクティブは「周望的（ペリオプティック）」である。これは、あらゆる人が監視者であるのと同時に被監視者でもあるという監視だ。中世欧州で発生した「魔女狩り」がそれに近い構図といえるだろう。
</p>

<h2 class="tit2">周望的な状況</h2>
<p>
　監視という行動は社会運営に不可欠である。監視という言葉が伝えるニュアンスがどうであれ、いかなるレベルであろうと監視なしの「無邪気」な生活など不可能なのだ。そうである以上、いかにして民主的な監視社会を形成するかが現実的な争点とならざるをえない。テクノロジーが監視を完全に自動化すれば、理論上、あらゆる人が被監視者となるので、状況としては民主的といえよう。しかし、システムの構築と維持が結局は人手に依存せざるをえない以上、自動化による完全な民主化は実現不可能である。<br />
　パノプティコン的にせよシノプティコン的にせよ、監視・被監視の立場の固定点が権力の不均衡をもたらす以上、あらゆる構成員が監視者であるペリオプティックな状況は、じつに民主的な監視社会である。監視が労働集約的な作業であろうと、社会の構成員全体が監視者となるのだから、人手不足という事態はありえない。一見するとナンセンスなこの状況は、実現可能性がゼロとはいえない。<br />
　たとえば電話が一般市民に浸透しつつあったころ、交換手不足が電話の普及を妨げるという予測があった。制約を打破するには、人口と同数の電話交換手が必要とされた。現在、われわれは相手の番号を覚え、その番号を自分でダイヤルして相手を呼び出す。この一連の作業は、かつての交換手によるサービスそのものだ。電話がほぼ普及しきった現代おいては、人口と同数の交換手が存在するといっていい。これとおなじ展開が監視にも適用されるかもしれない。「監視」という言葉を「見張る」ではなく「見守る」と捉えれば、ペリオプティックな監視社会とは、じつに心あたたかい社会と認識できるだろう。<br />
　しかし、我々は注意しなければならない。権力者にとって最も理想的な監視社会とは、少数の権力者が市民を監視する一方で、被監視者たる市民の間ではペリオプティックな状況が成立している社会である。監視されている人々が監視に加担するのだから、権力者にとってこれほど都合のいい事態はない。社会が外側からの脅威にさらされ、治安を守る側が社会の防衛を口実に密告を奨励すれば、こうした事態は発生しうるのである。「魔女狩り」はけっして過去の記憶ではないのだ。<br />
【おわり】
</p>
]]>
   </content>
</entry>
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   <title>書評『ドキュメンタリーは嘘をつく』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2005/05/post_21.html" />
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   <published>2005-04-30T17:05:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T13:31:02Z</updated>
   
   <summary>書評『ドキュメンタリーは嘘をつく』（森達也/著、草思社/刊、2005年） 共闘通...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
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         <category term="その他の原稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      <![CDATA[書評『<a href="http://www.amazon.co.jp/ドキュメンタリーは嘘をつく-森-達也/dp/4794213891/sr=1-10/qid=1168090084/ref=sr_1_10/503-1397363-9051163?ie=UTF8&s=books">ドキュメンタリーは嘘をつく</a>』（森達也/著、草思社/刊、2005年）
共闘通信社配信記事（神戸新聞、静岡新聞、京都新聞、信濃毎日新聞等に掲載）
2005年5月1日掲載
江下雅之
]]>
      <![CDATA[<p>
　ドキュメンタリー映像作家である著者の主張は明快である。ドキュメンタリーは対象と作者との関係性を描くものであり、作品は被写体への加害性を常に持ち合わせており、こうした性格に対し作者は自覚的であらねばならなず、それゆえにドキュメンタリーづくりは自分本位で悪辣な稼業である。こうした事柄が繰り返し述べられている。タイトルに「嘘をつく」とあるが、ドキュメンタリーの虚構性を論証するのでもなければ、「やらせ」批判でもない。本書のテーマはあくまでも作家性である。著者は自著『Ａ』からの引用により、「ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ」と述べる。ドキュメンタリーとフィクションとは、作者が対峙する世界を作者が自覚的に再構築するという点で本質的に同一のものなのだ。<br />
　著者は報道とドキュメンタリーとを区別している。情報の提示である報道は中立を標榜しうるのに対し、情感の喚起を本質とするドキュメンタリーは作者のエゴが徹底されることで作品が成立する。しかし、報道における中立という立場といえども、対象との関係性の一つであることに違いはない。結局、メッセージの意図を送り手が自覚的に「煩悶」すべきである点において、報道する者もドキュメンタリー作家もおなじ業を背負っているのだ。<br />
　作家性に関する本書の簡明な主張に対し、矜持の高い覚悟の表明と評価する人もいれば、露悪的な開き直りと非難する人も出てこよう。もとより受け手側も解釈という実践を通して作品世界を再構築するのであり、作家とおなじく自己本位で悪辣な存在である。受け手側と報道やドキュメンタリーとの関係性の違いによって、提起される問題は異なってくるだろう。<br />
　関係性によって多様な論点が喚起されることこそ、本書が森達也というドキュメンタリー作家のセルフ・ドキュメンタリー作品として成立していることを示しているのではないか。
（おわり）
</p>]]>
   </content>
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   <title>掲載誌：世界</title>
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   <id>tag:www.eshita-labo.org,2005:/articles//4.205</id>
   
   <published>2005-02-28T17:01:02Z</published>
   <updated>2007-01-06T10:01:20Z</updated>
   
   <summary>月刊誌、岩波書店/発行 「世界」の仕事を初めて受けたのは、2004年7月号の「〈...</summary>
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         <category term="単独原稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      <![CDATA[月刊誌、岩波書店/発行
「世界」の仕事を初めて受けたのは、2004年7月号の「〈対談〉監視社会をいかに生き抜くか」（p.179-）である。このときは田島泰彦・上智大学教授との対談であった。
「世界」の仕事を初めて受けたのは、2004年7月号の「<a href="http://www.iwanami.co.jp/sekai/2004/07/directory.html" target="_new">〈対談〉監視社会をいかに生き抜くか</a>」（p.179-）である。このときは田島泰彦・上智大学教授との対談であった。こうしたテーマの依頼が来たのは、講談社＋α新書『監視カメラ社会』や、講談社<a href="http://kodansha.cplaza.ne.jp/mgendai/mokuji/200407/main.html" target="_new">「月刊現代」2004年7月号</a>の原稿がそれなりの注目を集めたためらしい。
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   <title>監視テクノロジーと警察の関与</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2005/03/post_13.html" />
   <id>tag:www.eshita-labo.org,2005:/articles//4.204</id>
   
   <published>2005-02-28T17:01:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T09:53:12Z</updated>
   
   <summary>監視テクノロジーと警察の関与　—監視社会がもたらすアンバランス— 世界（岩波書店...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
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         <category term="雑誌2005" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      監視テクノロジーと警察の関与　—監視社会がもたらすアンバランス—
世界（岩波書店/発行）2005年3月号p.152掲載
江下雅之

      <![CDATA[<p>
市民生活の安全は、警察だけでは守れない。地域コミュニティ単位で防犯・防災の仕組みを運営するなど、生活者および共同体の主体的な行動が欠かせない。ところが、監視カメラをはじめとした「監視テクノロジー」という新しい公共事業の広がりのなかで、警察が関与する比重が重すぎる現状があるのではないか。
</p>
<p>
　市民生活を守るのは警察だけの仕事ではない。安全な社会をきずき、それを維持するには、個人レベルでさまざまな自衛手段を講じ、地域コミュニティ単位で防犯・防災の仕組みを運営するなど、生活者およびその共同体の主体的な行動が不可欠だ。ところが現実には、警察の関与が生活空間のさまざまな面に浸透しつつある。警察の役割を否定するつもりは毛頭ないが、現在の状況は、社会運営に占める警察の比重がアンバランスなまでに重くなっているのではなかろうか。<br />
　安全な環境を守るための対策には、基本的に手間と時間がかかるものである。だからこそ、多忙な現代人はテクノロジーや外部サービスの導入に頼ってしまう。たとえば小学生の我が子の安全を守りたいのなら、親が通学につきそうという方法もあるはずだが、六年間も毎日子どもにつきそえる親がどれほどいることか。だから我々はＧＰＳやＩＣチップを搭載した端末を子どもに持たせたり、学校に監視カメラを設置するようはたらきかけてしまうのである。現在の我々の生活は、安全の維持を外部に委託することで自分たちの生活の快適性や利便性を獲得している側面があるのだ。そして安全は誰もが望むものである以上、監視システムの構築は公共事業という性格を持つことになる。<br />
　安全を守る仕組みを実現するには専門的なノウハウが不可欠である。監視カメラを設置するにしても、どこに何台設置し、誰がどれだけモニタリングするか、記録をどのように残すかなどのマニュアルが不可欠だ。それを熟知しているのが警察であることは間違いない。実際、商店街が監視カメラを設置する際には警察が「助言」をあたえる例が多い。また、治安対策のために警察ＯＢがさまざまな企業に受け入れられているのも事実である。現実問題として、監視カメラがとらえた不審人物への対処となると、警察に解決をゆだねないわけにはいかない。民間の警備サービス業者であっても、最終的には警察との連携がはかられるものだ。結局のところ、安全を維持するためには個人レベルから地域レベルまでの主体的な対応が柱ではあっても、治安の専門家集団たる警察の支援を抜きにしたシステムは実効性が乏しいといわざるをえない。<br />
　二一世紀にはいり、監視に応用可能なテクノロジーはあらたな段階に入った。それを具体的に支えているのは、ブロードバンドのインターネットやＧＰＳなどの地球規模の情報インフラ、端末が小型化した携帯電話、本格的な普及段階に突入したマイクロチップ、低価格化が一気に進んだＣＣＤカメラなどである。そうしたシステムを誰もが利用できるのである。そしてテクノロジーの恩恵に浴せるのは「守る側」だけではない。子どもの安全を守るＧＰＳ端末は、ストーカーが標的を追跡するための道具ともなる。テクノロジーを誰もが容易に利用できるからこそ、それに対する防御もまた治安のノウハウを持った者の関与が必要なのだ。かくして警察への依存度はますます高まることになる。<br />
　一部の人々が需要をうったえ、行政がそれに呼応し、業界がその流れに加担する——高速道路や整備新幹線の建設で見られた構図が、じつは監視システムにおいてもそのままあてはまるのである。交通手段の必要性を真っ向から否定するのが困難であるのと同様に、安全を守るという正論に異議をとなえるのはむずかしい。現代社会では、凶悪犯罪に対する不安の連鎖が監視システムの構築という公共事業を正当化している。そしてテクノロジーの発展により、監視システムにもバージョンアップが必要になる。テロリストや犯罪組織が暗号化された電子メールを連絡手段に用いるようになったいま、通信傍受は電話だけでは足りず、インターネットのメール傍受と暗号解読が不可欠となる。そのためには、傍受装置や解読のソフトウェアなど、あたらしい投資が求められる。テクノロジーの「盾」と「矛」が競い合うかたちで、監視システムというあたらしい公共事業は、すでに雪だるま式に巨大化しようとしているのだ。<br />
　しかし、警察が主張するほど治安は悪化しているのか。たしかに『警察白書』や『犯罪白書』を見れば、刑法犯の認知件数が過去数年間で激増していることは一目瞭然だ。しかし、認知件数の増加がイコール治安の悪化ではない。事実、警察が公表している統計をふまえたうえで、日本の治安は決して悪化しているのではない、と分析する専門家も少なくないのだ。治安が悪化しているとの印象は、メディアによって増幅されている側面が濃厚なのではないか。特定の凶悪事件が繰り返し報道されることによって、犯罪に対する危機意識は現実の蓋然性に関係なく高まる。我々は、めったに起きないことへの危機感を募らせるという矛盾した感情に駆り立てられ、安全を守ろうとするのだ。しかし、これは感情レベルの問題であるだけに、客観的なデータを並べられて「心配しすぎだ」と指摘されても容易には納得できないのである。<br />
　警察が利権目当てで不安を煽っているとはいわない。しかし、現在の監視システムの進展が、その不安に乗じているのは否定しようがない事実なのだ。そもそも社会というものは、多かれ少なかれ「無邪気さ」がなければ運営できない。ほんの十年前に地下鉄サリン事件が発生したにもかかわらず、通勤者はガスマスクを常時携帯しているわけではない。過剰な警戒は社会不安を増し、警戒の網を広げることで、無数の罪なき容疑者を大量生産してしまうだろう。どこかで客観的な状況をみつめなおし、不安の連鎖にストップをかける必要があるのだ。
（おわり）<br />
</p>

<table class="r100" cellspacing="0">
<tr>
  <td rowspan="2" class="stripe"><div class="cnt"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062722429/qid=1143217347/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-1044198-9544204" target="_new"><img src="http://www.eshita-labo.org/lecture/bibliographie/surveillance.jpg" class="w120"></a></div></td>
  <th class="cellgray">監視カメラ社会<br /><span class="fnt11">—もうプライバシーは存在しない—</span></th>
</tr>
<tr>
  <td>江下雅之／著<br />講談社＋α新書<br />2004年2月、882円<hr />2004年上期に16件の書評が掲載されるなど、多方面で注目されています。</td>
</tr>
</table>
]]>
   </content>
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   <title>書評『9.11以後の監視』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2004/11/911.html" />
   <id>tag:www.eshita-labo.org,2004:/articles//4.214</id>
   
   <published>2004-11-13T17:05:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T13:51:19Z</updated>
   
   <summary>書評『9.11以後の監視』（D.ライアン著、明石書店/刊、2004年） 東京新聞...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="その他の原稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      <![CDATA[書評『<a href="http://www.amazon.co.jp/9・11以後の監視“監視社会”と“自由”-ディヴィッド・ライアン/dp/4750319791/sr=11-1/qid=1168091373/ref=sr_11_1/503-1397363-9051163">9.11以後の監視</a>』（D.ライアン著、明石書店/刊、2004年）
東京新聞・中日新聞2004年11月14日掲載
江下雅之
]]>
      <![CDATA[<p>
　監視社会は米国の同時多発テロ（9.11）後に突如として出現したわけではない。監視社会化は長期的な文脈のなかで進行してきたのであり、9.11は転換点にすぎないのだ。重要なことは、電子的・自動的な監視テクノロジーの普及により、あらたな監視の形態が浸透しつつあり、テロへの恐怖がその浸透に加担している、という視点を持つことである。——デイヴィッド・ライアンの近著『9.11以後の監視』に貫かれている問題意識を要約すれば、このようになろう。<br />
　監視に関するライアンの研究でとりわけ注目すべきことは、監視の必然性を社会的文脈からえぐりだし、さらに、一般市民や消費者など、監視される対象が監視に加担するプロセスを詳細に分析している点であろう。監視を権力者による抑圧という視点だけで捉えるのはナンセンスであり、その認識にとどまるかぎり、九・一一が転換した監視社会の本質は見えてこない。<br />
　本書は専門の研究者を対象とした理論書ではなく、一般市民が「監視」の転換を考える上で把握しておくべき視点を突きつけた内容となっている。問題提起に重点が置かれ、監視への対抗策が具体的に提言されているわけではないので、「ではどうすればいいのか？」という読後感を抱くかもしれない。しかし、監視という現象が突発的なものではないからこそ、明確な対策は提示不能なのだ。現実に監視社会で暮らす我らがなすべきことは、監視の現在形を正確に把握することであろう。<br />
　本書でライアンは「疑いの文化」「監視のアッサンブラージュ」などのキーワードで監視の現況を描いている。その結果顕在化しつつあるのが、「社会的仕分け」によるあらたな差別構造だ。監視という言葉からは、個人のプライバシー侵害という問題を我々は想起してしまいがちだ。しかし、社会的差別という次元で監視を考えねばならない点を、ライアンは本書で警告しているのである。<br />
（おわり）
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>監視とテクノロジー</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2004/09/post_20.html" />
   <id>tag:www.eshita-labo.org,2004:/articles//4.213</id>
   
   <published>2004-09-21T18:03:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T13:21:11Z</updated>
   
   <summary>Ｄ・ライアン来日記念国際シンポジウム「〈監視社会〉と〈自由〉」 会場：上智大学　...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="その他の論文・レポート" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      Ｄ・ライアン来日記念国際シンポジウム「〈監視社会〉と〈自由〉」
会場：上智大学　協賛：毎日新聞社
シンポジウム資料「監視とテクノロジー」2004年9月22日配布
江下雅之

      <![CDATA[<table class="r100" cellspacing="0"><tr><td>
<ul class="ulsq12">
<li>The surveillance society does not emerge suddenly in modern age. But recent electoronic technologies provide monitoring system not only for authorities but also for citizens.</li>
<li>The citizens enjoying urbain life accept electronic surveillance system for their security. It is not the dictators but citizens themselves who promote the modern surveillance society.</li>
<li>The technologies such as Internet, GPS, mobile telephone and microchips will complete the surveillance society. The customers benefit from these technologies to enjoy their modern life.</li>
<li>Anti-terrorisme system must watch out all citizens because terrorists hide in people's daily life.</li>
<li>We must choise the persons who watch us and the way how they watch us in order to save our society. However, surveillance system is invading our home without discussing this issue.</li>
</ul>

【要約】
<ol class="ol12">
<li>監視テクノロジーの新局面　監視社会は過去にも存在するが、電子デバイス、ネットワークの進展により、大幅な省力化を達成した監視社会が現代に出現した。</li>
<li>監視される側の論理　現代の監視は、権力者が強制しておこなうものではなく、一般消費者みずからが自身の生活の利便性を追求する文脈のなかで浸透している。便利な情報サービスは、そのまま強力な監視システムとなってしまう。</li>
<li>監視テクノロジーの大衆化　電子機器の低価格化が進んだ結果、一般市民自身が強力な監視ツールを手にすることができ、その結果、市民自身が潜在的な監視者となっている。この潜在的危険性を否定するには、あらゆるレベルでの監視が必要となってしまう。</li>
<li>超監視社会の情報インフラ　インターネット、携帯電話網、ＧＰＳの普及、それに加えてマイクロチップの出現によって、超監視社会を完遂する技術的な基盤が整った。</li>
<li>誰に監視してもらうのか　プライバシーとセキュリティは対立する概念だが、都市型ライフスタイルはプライバシーに重点を置くがゆえに、電子的手段を用いた監視システムの普及を促す。本来、ここで必要であるべき議論（コミュニティの再構築、電子的手段以外の監視など）が進展せぬまま、こうした既成事実が積み重ねられている点こそ、最も深刻な問題である。</li>
</ol>
</td></tr></table>

<h2 class="tit2">監視テクノロジーの新局面</h2>
<p>
　監視社会は現代に突如として出現したのではない。旧共産圏諸国はもちろん、戦前の日本社会も市民の思想を監視する社会であった。しかし、過去の監視社会と現代のそれとは、監視に用いられるテクノロジー、そして監視対象である市民のライフスタイルの点で、根本的に異なるのである。<br />
　監視は基本的に労働集約的な作業である。旧東ドイツ政府は五〇万人もの秘密諜報員を雇い、そのうちの一万人を市民の電話会話傍受に従事させていたという。ところが現代は、携帯電話やＧＰＳなどネットワークにくわえ、デジタルビデオやデジタルカメラなどのおかげで、監視を広範囲にわたって自動化できる。アメリカではフットボールを観戦に来た数万人もの群衆の顔を自動的に識別するカメラシステムが開発され、イギリスでは三〇〇万台以上のカメラが市民を監視する。そして日本でも、街の治安を守るという名目で繁華街に防犯カメラが設置されている。世界の監視カメラ市場は今後も急成長する見込みだ。我々の周辺は、かつてなかったほど「監視の目」が取り巻かれるようになった。<br />
　電子的監視がもたらす第一の効用は、監視に従事する人の労力の省力化である。作業の省力化によって、人海戦術では不可能な監視が達成可能となる。一九七〇年代から八〇年代にかけて、米国は世界規模で通信傍受システムを構築してきた。「エシュロン」というコード名で知られるようになったそのシステムは、情報収集活動の省力化が重要な目的であった。そして米国の国防総省が二一世紀に入ってから構築を進めているＴＩＡ（Terrorism Information Awareness：テロ情報認知）と呼ばれるシステムは、情報分析官の業務を高度なレベルで自動化・省力化することを目指したものである。
</p>

<h2 class="tit2">監視される側の論理</h2>
<p>
　市民がみずからの安全を守ろうとする行為に対しても、電子的な監視システムは省力化の恩恵を与えてくれる。たとえば小学校に通う子どもの安全を守るには、親が送迎する、スクールバスを用意する、地域住民がパトロールする等々、さまざまな手段がある。しかし、このような手間のかかる手段にくらべ、校門に監視カメラを設置することのほうが、はるかに手軽で低コストだ。<br />
　もともと都市型ライフスタイルは監視の省力化を受け入れやすい素地を持つ。自分の都合や好みによって人間関係を極小化できる点が、都市型ライフスタイルの魅力だからだ。日ごろから隣人と緊密な交流をしていれば、いざというときに助けてもらうことも可能だろう。しかし、その隣人は変質者かもしれないし、潜伏中の犯罪者かもしれない。都市生活には、どこにどういう人物がいるのかがわからない恐怖がつねに存在する。であればこそ、電子的な監視システムは、自分の安全を都合良く守ってくれる手段と認識されうるはずなのだ。<br />
　しかし、テクノロジーへの安直な依存は、とんでもないしっぺ返しを喰らわす。あちこちに監視カメラが設置されることで、我々の行動がしじゅう記録される。その記録が犯罪捜査に用いられるときには、膨大な数の容疑者がカメラの記録から掘り出されるのだ。電子的な監視網が広がれば広がるほど、犯罪とは関係のない一般市民が容疑者として扱われるのである。実際に、防犯カメラに映った窃盗犯に似た男性を警察が誤認逮捕していた、という事件が起きているのである。このような事例は、監視カメラの設置台数が増えれば確実に増加するはずだ。<br />
　携帯電話とＧＰＳを組み合わせた位置情報サービスも「両刃の剣」である。これによって、たとえば山登りの際に持参していれば、山中で迷子になっても即座に位置確認ができるだけでなく、遭難時に救援隊が向かうべき場所が即座に判明する。ストーカー被害に悩む人にとっても、位置情報サービスは心強い。警備員が緊急時に駆けつけるサービスは複数の業者が提供している。徘徊老人や子ども向けのサービスもある。自分の所在を外部に知らしめることは、個人の自衛手段ともなっているのだ。<br />
　ところが、ストーカー側も位置情報サービスを「つきまとい」に利用できる。二〇〇三年二月にアメリカのミルウォーキー州で逮捕されたストーカーは、分かれたガールフレンドの自動車にＧＰＳ端末を密かに仕掛け、彼女が外出するたびにつきまとっていた。まったくおなじことは、日本でも起きうるのである。
</p>

<h2 class="tit2">監視テクノロジーの大衆化</h2>
<p>
　個人が簡単にハイテクを装備できるこが現代であり、カメラ付き携帯電話とインターネットの普及により、「監視の目」は急拡大してしまった。たとえば覗き屋のなかには、小型ＣＣＤカメラを靴の先に仕掛けて画像を撮影する者もいる。更衣室やトイレに電波を発信するカメラを仕掛け、外で映像を受信することも可能だ。赤外線カメラを使えば透視もできる。すこし以前ならスパイの七つ道具として通用しそうなものが、いまでは一般個人でも手軽に買えてしまうのである。<br />
　かつて覗き見の被害者は、覗き屋の記憶に束の間とどまるのみだった。現代はデータとして記録され、不特定多数の人のところにコピーが行き渡る可能性がある。なにしろ映像や画像を記録する道具を多くの人が日常的に持ち歩き、インターネットというデータの流通チャネルを利用できる時代なのだ。技術的な可能性からすれば、女性のスカート内の様子を電車のなかから「実況中継」できるのである。そして中継された映像は、インターネットのあちこちでコピーされるかもしれない。<br />
　インターネットを舞台にした犯罪的行為では、匿名の加害者の問題が注目されがちだが、それ以上に、匿名の被害者にこそ危惧を抱くべきである。通常、被写体が特定されないかぎり、盗撮画像があちこちに流通したところで、盗撮された人が被害をこうむることはない。しかし、ひとたび被害者が特定されるようなことがあれば、相当な精神的ダメージを受けるだろう。しかも、流通した盗撮画像を回収するのは不可能だ。<br />
　被害が露顕する事例はきわめて少ないとはいえ、このような可能性を知れば、多くの人は気色悪さを感じるはずだ。個人がネットワークを駆使できる時代というのは、このような部分も受け入れなければいけないのである。しかも、匿名の被害者を救済するべく管理を強化しよう、と主張しようものなら、監視社会はさらに加速を速める結果となるのだ。なぜなら、被害者の救済は、ネットワークの全利用状況を捕捉可能な仕組みを導入しないかぎり不可能だからである。
</p>

<h2 class="tit2">超監視社会の情報インフラ</h2>
<p>
　技術的な可能性から見れば、インターネット、携帯電話、ＧＰＳ、そしてマイクロチップが超監視社会を完成させる基盤技術である。マイクロチップはＲＦＩＤという在庫管理用ＩＣタグでの需要が拡大している。バーコードよりも数段効率的な商品管理手段であることが認識されつつあるほか、福祉分野での応用が期待されている。<br />
　誘拐がビジネス化している中南米では、マイクロチップを身分証明用に埋め込む人がいる。個体識別用マイクロチップは、もともとペットを管理するために普及した。米国や英国ではすでに、二〇〇〇万個以上のマイクロチップがイヌやネコに埋め込まれている。それによって、ペットが迷子になったときには即座に飼い主を特定できるのと同時に、ペットの盗難対策にもなっている。このような危険性はヒトにもあてはまるのだから、人間相手にマイクロチップを埋め込もうという発想は、けっして突飛なものではない。<br />
　注意が必要なことは、本来なら監視される側である市民のほうが、みずから進んで監視を受け入れるという状況がある点だ。一九九八年には、スイス警察が携帯電話保持者の位置情報を秘密裏に追跡していたことが暴露された。ところが日本では、位置情報がビジネスの対象として取り扱われているのである。これは、個人情報と引き替えに利便性を享受していることにほかならない。<br />
　監視を実行するテクノロジーは、いまやあたらしい段階に入った。一九五〇年代から推進された監視の自動化は、一九八〇年代に大規模なシステムによって実現された。そして二一世紀に入り、従来の端末機器に比べて極端に小さいマイクロチップが、我々の身の回りのありとあらゆるところに浸透する。また、携帯電話網や無線ＬＡＮなど、ありとあらゆるところからアクセスが可能なネットワークが我々を取り囲む。いわゆるユビキタス社会とは、いたるところにコンピュータが置かれている社会だが、これはすなわち、生活空間の隅々にまで監視の網が張り巡らされている、ということだ。
</p>

<h2 class="tit2">誰に監視してもらうのか</h2>
<p>
　プライバシーとセキュリティとは、本質的に対立する発想である。なぜなら、プライバシーの古典的な定義は「一人にしてもらう権利」であるのに対し、セキュリティの基本は、「けっして一人にはしないこと」だからだ。プライバシーに重きを置けば、自衛手段を持たなければならない。ここに監視システムが浸透する余地が生じる。現代の監視社会化の流れで留意すべき点は、監視される側が権力者からの〈監視〉を強制されるのではなく、みずから好んで監視されることを選択しつつある点だ。そして、利便性をまとった情報サービスが監視社会化を推進するのである。<br />
　もちろん、監視が皆無という社会は考えられない。問題は、「誰が」「どうやって」監視をおこなうか、そのような合意形成を「誰が」「どうやって」下すか、である。本来であれば、そこに住まう人たちが、いかにして自分たちのコミュニティを運営していくか、という議論が生じるはずなのだ。それが現実には、安直にテクノロジーに頼ろうとしてしまうのである。ところが、電子的監視を安直に選択してしまうと、すぐさまコントロール不能の状態に陥ってしまう危険性に、なかなか発想が進まない。<br />
　いずれにせよ、我々はテクノロジーを拒否できない。監視にかかわる部分の浸透だけを選択的に拒否することも不可能である。あらゆるテクノロジーは相互に干渉しながら進化しているうえに、テクノロジーの浸透とライフスタイルの変化とは、つねに一体となって進展しているからだ。どこか一部のテクノロジーを否定しようとすれば、生活水準そのものも過去に戻す必要がある。<br />
　監視社会という問題に特効薬も即効薬もない。極論するなら、我々は監視システムを素直に（あるいは無邪気に）受け入れたライフスタイルを許容するか、あるいは電子的な監視システムを不要とする人間関係を地道に構築するライフスタイルを採り入れるかの、いずれかしか選択肢はないのである。<br />
　こうした選択肢を熟考するいとまもなく、テクノロジーとライフスタイルの双方で監視社会化を促す状況が展開し、監視システムのツールは我々の身近な生活場面に浸透する。反面、市民的自由やプライバシーなどをめぐる議論は、その種の事件の当事者を除けば、おおよそ自分たちの生活とは接点のない主張と認識されてしまう。我々は「身の安全」という自分自身にかかわる〈小さな物語〉には敏感である一方で、「市民的自由」という〈大きな物語〉には当事者意識を持てない。テロ対策や治安維持を進めようとする明確な意志が国家側にある以上、こうした意識の乖離は、監視社会化をいっそう加速するだろう。<br />
（終わり）<br />
※本稿は、月刊『現代』（講談社発行）の2004年7月号に掲載された拙稿「監視社会はあなたの携帯・メールを追いかける」を改稿したものです。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
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   <title>監視社会</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2004/07/post_16.html" />
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   <published>2004-06-30T18:01:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T12:53:54Z</updated>
   
   <summary>月刊現代（講談社/発行）2004年7月号pp.158-165 江下雅之 ...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="一般論文" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      <![CDATA[月刊現代（講談社/発行）2004年7月号pp.158-165<br />
江下雅之
]]>
      <![CDATA[<h1 class="tit1">監視社会はあなたのメール・携帯を追いかける</h1>
<h2 class="tit2">新局面をむかえた監視社会</h2>
<p>
　アメリカではフットボールを観戦に来た数万人もの群衆の顔を自動的に識別するカメラシステムが開発され、イギリスでは三〇〇万台以上のカメラが市民を監視する。そして日本でも、街の治安を守るという名目で繁華街に防犯カメラが設置されている。世界の監視カメラ市場は今後も急成長する見込みだ。我々の周辺は、かつてなかったほど「監視の目」が取り巻かれるようになったのである。<br />
　監視社会は現代に突如として出現したのではない。旧共産圏諸国はもちろん、戦前の日本社会も市民の思想を監視する社会であった。しかし、そうした時代の監視社会と現代のそれとは、監視に用いられるテクノロジー、そして監視対象である市民のライフスタイルの点で、従来とは根本的に異なるのだ。<br />
　国家がおこなうのであれ、私立探偵がクライアントの依頼に応じるのであれ、監視は基本的に手間のかかる作業である。旧東ドイツ政府は五〇万人もの秘密諜報員を雇い、そのうちの一万人を市民の電話会話傍受に従事させていたという。監視は人海戦術頼みだったのだ。ところが現代は、携帯電話やＧＰＳなどネットワークにくわえ、デジタルビデオやデジタルカメラなどのおかげで、監視を広範囲にわたって自動化できるのである。この点が監視社会にあらたな局面をもたらしたのだ。<br />
　インターネットや携帯電話を当然のごとく利用する我々の生活そのものがまた、電子的な監視には好都合である。たとえば私は、オンライン書店のアマゾンから頻繁に本を購入するが、なにか一冊購入するたびに、画面には私の興味をそそる本が多数表示される。これは、利用者の購買履歴を業者が管理し、「こういう本を買う人は、これらの本もほしがる傾向がある」という分析を常時おこなっている結果だ。<br />
　このような分析を普通は「監視」とはいわない。顧客情報管理とか販売情報管理などと呼ばれるマーケティング手法のひとつである。詳細な分析が可能な業者ほどビジネスの世界では評価されるものだ。とはいえ、消費者の足跡が記録されている事実にかわりはない。我々の行動が業者に規制されていないから「監視」といわないだけで、おこなっていることは監視とかわりはない。<br />
　そして９・１１以降のアメリカ政府は、テロ容疑者捜査の名目で民間企業にさまざまな顧客情報・販売情報を提供させている。それどころか、国防総省が進めるライフログ計画は、個人が消費活動などで残す電子的な「足跡」を網羅的に捕捉できるシステムの構築を目指している。マーケティングのためのシステムは、国家の思惑や社会情勢によって、個人を監視するシステムへと即座に切り替わる可能性があるのだ。<br />
　携帯電話を持ち歩くこと、電子メールを送受信することなど、みずからのプライバシーを放棄するに近い行為なのだ。携帯電話とは、「わたしはいまここにいますよ」という位置情報をリアルタイムで発信する仕組みにほかならない。一九九八年には、スイス警察が携帯電話保持者の位置情報を秘密裏に追跡していたことが暴露された。位置情報を監視しようとする動きは、すでに現実のものなのである。<br />
　インターネットの電子メールは透明の封筒入った手紙のようなもので、メールを中継するサーバで簡単に盗み見されてしまう。しかも状況によっては盗み見が正当化されることがあるのだ。二〇〇一年一二月三日、社内ネットワークを用いた私的メールを上司が本人に無断で閲覧しても、プライバシーの侵害にはあたらない、という判決が下された裁判が東京地裁であった。社員によるネットワークの私的利用に厳しい米国企業の場合、三八パーセントの企業が電子メールの保存や閲覧をおこなっており、五四パーセントがインターネットの接続状況をモニタリングしている、という調査結果もあるのだ。
</p>

<h2 class="tit2">監視する側の論理</h2>
<p>
　企業はなぜ社員のネットワーク利用を監視するのか。もちろん、会社の財産を不当に使わせないという目的もある。しかし、最大の理由は、機密の流出を防ぐこと、そして外部からのクラッキング行為に備えることである。もともとインターネットのサーバを管理するときに、「スニッファ（探知）」と呼ばれる管理ソフトがしばしば利用される。不正アクセスやウイルスなどの問題があるため、企業のネットワーク管理者にしてみれば、社内ＬＡＮに接続されているコンピュータの管理は不可欠な業務だ。その範囲がメールの内容にまで含めていいかどうかは、法律の専門家でも意見がわかれている。<br />
　ところが、アメリカでは電子メールをサーバ上で貪る「肉食獣」がＦＢＩによって育てられていた。二〇〇〇年七月、ＦＢＩが電子メール傍受システムに関する説明会を通信事業者向けにおこなっていたことを、ウォール・ストリート・ジャーナル紙がスクープした。システムのコード名は“Carnivore”（カーニボー、「肉食獣」の意）で、その後のマスコミの取材によれば、一九九九年一〇月から二〇〇〇年八月までのあいだに一三件の調査で使われていたことも判明した。<br />
　カーニボーはノートブックパソコンにインストールされ、ＦＢＩ捜査員が必要に応じてプロバイダのサーバに接続する。ＦＢＩの説明によれば、サーバを通過するすべてのメールはカーニボーを通過するが、その際に傍受対象のアドレスに該当するメールだけが記録される仕組みだ。しかし、傍受されるのは本当に該当するメールだけなのか、記録の対象がメールヘッダだけなのか、それともメール本体まで含まれるのかは明らかにされていない。カーニボーの存在が公になってから、第三者機関が運用のあり方を監査したが、誤用防止の歯止めがないと批判している。<br />
　さらに、捜査員の恣意的な捜査をチェックする術もないのだ。さらに、捜査員が機器の操作に不慣れな場合、対象外のメールが大量に記録されることは十分にありうる。ちなみに、対象外のメールをうっかり傍受したことに気づいた捜査員が、うっかりと本来記録するべきメールまで削除してしまった、という事例が実際に存在する。消してしまったメールがアルカイダ関係者のものだったので、事が大々的に報道されたのである。<br />
　じつは日本の警察庁も「肉食獣」を飼っている。正式名称は「通信事業者貸与用仮メールボックス装置」で、二〇〇一年に仕様が公報で公開された。その運用は通信傍受法にもとづいておこなわれるのだが、ＦＢＩの場合とおなじ問題があることは間違いない。
</p>

<h2 class="tit2">監視される側の選択</h2>
<p>
　ここ数年の監視カメラの急増は、じつのところ、市民みずからが選択している側面がある。市民自体が電子的な監視システムがもたらす省力化の恩恵に浴しているのだ。たとえば小学校に通う子どもの安全を守るには、さまざまな手段がある。親が送迎する、スクールバスを用意する、地域住民がパトロールする、なども有効な対応策であることは間違いない。しかし、このような手間のかかる手段にくらべ、校門に監視カメラを設置することのほうが、はるかに手軽で低コストだ。<br />
　もともと都市型ライフスタイルは監視の省力化を受け入れやすい素地を持つ。自分の都合や好みによって人間関係を極小化できる点が、都市型ライフスタイルの魅力だからだ。日ごろから隣近所の人と緊密な交流をしていれば、いざというときに助けてもらうことも可能だろう。しかし、隣人と日常的なつきあいを重ねるためには、なにかと気をつかわねばならない。隣人にわずらわされない生活とは、隣人どうしがお互いに何者なのかを知ろうとしない生活でもある。であればこそ、電子的な監視システムは、自分の安全を都合良く守ってくれる手段と認識されるはずだ。<br />
　しかし、テクノロジーへの安直な依存は、とんでもないしっぺ返しを喰らわす。あちこちに監視カメラが設置されることで、我々の行動がしじゅう記録される。その記録が犯罪捜査に用いられるときには、膨大な数の容疑者がカメラの記録から掘り出されるのだ。電子的な監視網が広がれば広がるほど、犯罪とは関係のない一般市民が容疑者として扱われるのである。二〇〇四年二月には、札幌市で防犯カメラに映った窃盗犯に似た男性を北海道警が誤認逮捕していた、という報道があった。このような誤認の件数は、監視カメラの設置台数が増えれば確実に増加するだろう。<br />
　位置情報サービスも「両刃の剣」である。携帯電話とＧＰＳを組み合わせれば、ＧＰＳが把握した座標を携帯電話で発信できるので、端末所持者の所在を自動的に確認できる。これによって、端末保持者向けにさまざまなサービスを提供できる。たとえば山登りの際に持参していれば、山中で迷子になっても即座に位置確認ができるだけでなく、遭難時に救援隊が向かうべき場所が即座に判明する。<br />
　ストーカー被害に悩む人にとっても、位置情報サービスは心強い。二〇〇三年一月には、千葉県警がセコムと提携し、ストーカー被害者に端末を貸し出す試みがはじまった。被害者が端末から通報すれば、位置情報が千葉県警に送られ、県警は現場ちかくにいる警察官を無線を使って派遣する仕組みだ。それ以外にも、警備員が緊急時に駆けつけるサービスは複数の業者が提供している。徘徊老人や子ども向けのサービスもある。自分の所在を外部に知らしめることは、個人の自衛手段ともなっているのだ。<br />
　ところが、ストーカー側も位置情報サービスを「つきまとい」に利用できる。二〇〇三年二月にアメリカのミルウォーキー州で逮捕されたストーカーは、分かれたガールフレンドの自動車にＧＰＳ端末を密かに仕掛け、彼女が外出するたびにつきまとっていた。まったくおなじことは、日本でも起きうるのである。<br />
　技術的な可能性から見れば、マイクロチップが超監視社会を完成させる基盤技術である。マイクロチップはＲＦＩＤという在庫管理用ＩＣタグでの需要が拡大している。万引き対策はもちろんのこと、バーコードよりも数段効率的な商品管理手段であることが認識されつつある。また、松下電器産業の「ものしりトーク」のように、音声を録音できるＩＣタグが開発されており、これに商品情報を記録し、目が不自由な人が品物を確認できる仕組みが提案されている。同様に、点字ブロックに録音ずみＩＣタグを埋め込んだ歩行者用のナビゲーションシステムを開発したメーカーもある。そのほか、マイクロチップは福祉分野での応用が期待されている。<br />
　誘拐がビジネス化している中南米では、マイクロチップを身分証明用に埋め込む人がいる。マイクロチップを個体識別用に利用しようとのアイデアは、もともとはペットを管理するために鑑札の代替品として普及した。米国や英国ではすでに、二〇〇〇万個以上のマイクロチップがイヌやネコに埋め込まれている。それによって、ペットが迷子になったときには即座に飼い主を特定できるのだが、同時にこれは、ペットの盗難対策にもなっている。このような危険性はヒトにもあてはまるのだから、人間相手にマイクロチップを埋め込もうという発想は、けっして突飛なものではない。<br />
　監視を実行するテクノロジーは、いまやあたらしい段階に入った。一九五〇年代から推進された監視の自動化は、一九八〇年代に大規模なシステムによって実現された。そして二一世紀に入り、従来の端末機器に比べて極端に小さいマイクロチップが、我々の身の回りのありとあらゆるところに浸透する。また、携帯電話網や無線ＬＡＮなど、ありとあらゆるところからアクセスが可能なネットワークが我々を取り囲む。マイクロチップは紙幣への埋め込みも可能なのだから、最も匿名性の高い存在であるはずの紙幣すらも、移動履歴を管理できるようになるだろう。そのような時代が到来しつつあるということに対し、我々はもっと自覚的であるべきだ。
</p>

<h2 class="tit2">監視の効果</h2>
<p>
　監視という行動には二つの原則がある。一つは「凶悪な人物が犯罪を犯さないように監視すること」であり、もう一つは「善良な市民が被害にあわないように見守ること」である。これら二つの側面がうまく使い分けられれば、なるほど市民には都合がいいかもしれない。しかし、凶悪な人物と善良な市民とが区別できないからこそ、市民の安全を守るシステムは、全市民を潜在的な犯罪者として監視することになるのだ。<br />
　実のところ、犯罪者と善良な市民との線引きは容易ではない。守られるべき存在である子どもが殺人を犯すことがある。さらに、ストーキングや家庭内暴力などは、日常的な行為のちょっとした逸脱と犯罪との境界があいまいである。誰もが犯罪者となりうるのであり、ゆえに監視システムは市民すべてを監視対象とするのだ。<br />
　９・１１以降のアメリカ社会では、市民をテロから守るという口実で通信傍受やアクセス記録の政府への提出など、監視体制の強化が進んでいる。ここでもまた、テロリストと市民とが明確に区別されるもの、という前提が置かれている。しかし、テロリストが市民の日常生活に潜むからこそ、テロ対策の監視システムは必然的に市民を監視するシステムとなるはずなのである。<br />
　日本ではテロ対策よりも犯罪防止の目的で監視システムが浸透しようとしているが、そもそも犯罪件数は本当に増えているのか、本当に凶悪化しているのだろうか。新宿歌舞伎町などに設置された街頭監視カメラは、警察当局の主張によれば、着実に成果をあげているという。しかし、いかなる〈網〉であろうと、大なり小なりの、あるいは多かれ少なかれ、〈魚〉はとれるものなのだ。成果がゼロということは、そもそもありえない。監視カメラの例とは異なるが、米国では、捜査目的で通信傍受をおこなう件数が増加の一途をたどっているという。そして、検挙に至った通信傍受件数の比率は、年々低下しているのだ。このことが示すことは、警察当局はひとたび手にした捜査方法を乱発する傾向がある、ということではないのか。監視カメラでもおなじことがいえるのではないか。<br />
　犯罪の増加や凶悪化という主張自体も疑ってみるべきである。実際、我々は治安は悪化しているかの印象を受ける。凶悪事件はメディアでたびたび報道される。そのたびに、世の中がこういう情勢なのだから、監視システムも必要なのではないか、と思ってしまうわけだ。杉並区が監視カメラの設置及び利用基準を審議した際にも、犯罪の増加が定量的なデータを用いて指摘されている。ところがこのデータは、あくまでも警察によって認知された件数にすぎないのだ。犯罪の増減を客観的に論じるには、犯罪の全件数が必要なのである。ところがそのようなデータは存在しない。そもそも犯罪に関するデータを、警察以上の精度で我々が収集することは不可能だ。したがって、警察が出すデータの検証すらも果たせないのである。<br />
　逆に、いくつかの犯罪例を見せつけられるだけで、我々は治安の悪化を認めてしまう。テレビは繰り返し凶悪犯罪の経緯を報道する。商業メディアの論理として、世間の注目を集めそうな事件を報道するのは当然のことである。ところがその結果、我々は常に不安を煽られるのだ。かくしてますます監視システムを推進する口実がつきやすくなってしまうのである。テロや犯罪を十分に防止できないことすらも、監視社会を強化する理屈にすりかえられてしまうのである。
</p>

<h2 class="tit2">誰に監視してもらうのか</h2>
<p>
　プライバシーとセキュリティとは、本質的に対立する発想である。なぜなら、プライバシーの古典的な定義は「一人にしてもらう権利」であるのに対し、セキュリティの基本は、「けっして一人にはしないこと」だからだ。したがって、プライバシーに重きを置けば、誰かから守ってもらうことを期待できない。自分の安全を守る術は、自分で用意しなければならないのだ。ここに監視システムが浸透する余地が生じる。<br />
　現代の監視社会化の流れで留意すべき点は、監視される側が意思に反して〈監視〉を強制されるのではなく、みずから好んで監視されることを選択しつつある点だ。日常的な犯罪に対する不安、そして電子的な監視システムの手軽さが「現代人受け」しているのである。一人一人の立場が弱いからこそ、孤立した個人は監視システムのような無機質なツールで自衛することを選択する。そしてさらに、利便性をまとった情報サービスにこそ監視社会化を推進する。<br />
　もちろん、監視という行為がいっさいない社会は考えられない。問題は、「誰が」「どうやって」監視をおこなうか、そのような合意形成を「誰が」「どうやって」下すか、である。本来であれば、そこに住まう人たちが、いかにして自分たちのコミュニティを運営していくか、という議論が生じるはずなのだ。それが現実には、安直にテクノロジーに頼ろうとしてしまうのである。<br />
　ところが、電子的監視を安直に選択してしまうと、すぐさまコントロール不能の状態に陥ってしまうのだ。実際のところ、どこか一箇所に監視カメラが設置されたら、地域全体に監視カメラ網が広がるのは時間の問題である。なぜなら、監視カメラの設置場所で犯罪が減少したとしても、歌舞伎町や原宿などの例をみるかぎり、犯罪の発生場所がカメラの死角に移動するだけだ。であれば、監視カメラは網羅的に設置する必要がある、という結論に至らざるをえない。その結果、あらゆる場所にカメラが設置され、我々の日常生活をくまなく記録する、という事態に至ってしまうのである。<br />
　テクノロジーに「影」の部分が存在するとはいえ、我々はテクノロジーを拒否できない。ならば、監視にかかわる部分、たとえば携帯電話とかマイクロチップの浸透だけを選択的に拒否できるかというと、それも不可能なのである。なぜなら、あらゆるテクノロジーは相互に干渉しながら進化しているうえに、テクノロジーの浸透とライフスタイルの変化とは、つねに一体となって進展しているからだ。かりにどこか一部のテクノロジーを取り出し、そこだけ時計の針を逆転させようとすれば、生活水準そのものも過去に戻す必要があるのだ。つまり、電子的監視を徹底して排除するためには、エレクトロニクスの出現以前、すなわち一九世紀にまで生活を戻さなければならないのである。<br />
　監視社会という問題に対しては、特効薬も即効薬もない。極論するなら、我々は監視システムを素直に（あるいは無邪気に）受け入れたライフスタイルを許容するか、あるいは電子的な監視システムを不要とする人間関係を地道に構築するライフスタイルを採り入れるかの、いずれかしか選択肢はないのである。
</p>
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   </content>
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   <title>掲載誌：刑政</title>
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   <published>2001-07-31T17:01:02Z</published>
   <updated>2007-01-06T10:01:35Z</updated>
   
   <summary>月刊誌、財団法人矯正協会/発行、明治32年創刊 一般の知名度は高くない雑誌だが、...</summary>
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         <category term="単独原稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      月刊誌、財団法人矯正協会/発行、明治32年創刊
一般の知名度は高くない雑誌だが、矯正職員およびOBを会員とする矯正協会が定期的に発行している雑誌である。明治32年に創刊された当時の名称は「大日本監獄協会雑誌」であった。現在の「刑政」に改称されたのは大正11年である。

      
   </content>
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   <title>ネットワーク社会の功罪</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2001/08/post_10.html" />
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   <published>2001-07-31T17:01:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T09:42:18Z</updated>
   
   <summary>都市化・市場経済化の延長にあるネットワーク社会の功罪 月刊刑政（財団法人矯正協会...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="雑誌2001" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      都市化・市場経済化の延長にあるネットワーク社会の功罪
月刊刑政（財団法人矯正協会/発行）2001年8月号pp.36-41掲載
江下雅之

      <![CDATA[<p>
　さきごろ小泉「変人」首相が誕生しました。自民党総裁選挙での地滑り的勝利について、マスコミ論説の多くは、自民党員が閉塞感の打破を願った結果と分析しています。この「閉塞感」というキーワードは、政治の世界にかぎらず、個人消費、企業活動をはじめ、多くの分野で近年とみに語られていることばでもあります。インターネットを基盤にした交流、いわゆる「ネットワーク社会」もまた、伝統的な社会形態に対する一種の閉塞感を打破する人間関係のありかたを願う気持ちが大きな期待なり注目をもたらすに至ったと考えていいでしょう。<br />
　それでは、なにがいったい伝統的な社会形態なのか、どこに閉塞感があるのか、ネットワーク社会はどこをどう打破したのか。こうした疑問点にこたえるまえに、いわゆるネットワーク社会には二つのまったく異なる意味あいがあり、多くの議論ではそれらをまぜこぜにしている点を指摘しなくてはいけません。
</p>
<h2 class="tit2">ネットワーク「型」の社会とネットワーク「上」の社会</h2>
<p>
　まず第一に、個々人が対等の関係でヨコのつながりを広げる交流を、ネットワーク社会と呼ぶことがあります。これは厳密には「ヨコ型のネットワーク構造を持つ社会」と表現すべき形態です。<br />
　一九六〇年代に中根千枝という社会人類学者が『タテ社会の人間関係』（講談社現代新書）という本を刊行しました。いまなお売れ続けているロングセラーですが、同書で指摘されている重要な内容は、集団構成の第一条件が構成メンバーの「資格」の共通性である場合と「場」の共有によるものである場合のいずれかである、とした点です。そして日本人は一般に「自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは、資格よりも場を優先すること」（同書）と分析しています。「場」とは会社とか集落など集団の「枠組み」を指すのですが、一つの例を出すなら、社会人が自分のアイデンティティを問われたとき、どういう専門技術を持っているかではなく、どの会社に所属しているかを連想するということです。
「場」の原理で構成される社会では、異なる「資格」を有する者、つまり本来なら集うだけの共通点を持たない人たちが集団に内包されるわけですから、いかにして結束を保つかが重要になります。中根の分析によると、それはメンバーに一体感を持たせる働きかけでおこなわれるのと同時に、集団内の人びとを結ぶ内部組織を築いて強化する方法がとられます。家族的な経営を標榜する会社が、社員旅行を実施したり毎朝社歌をうたわせるのは、一体感を持たせる働きかけといっていいでしょう。社内サークル、社宅、慶弔金制度などは、メンバーを結ぶ内部組織を強化する仕組みともいえます。<br />
　こうした集団は、メンバー内には情緒的な結びつきが強まる一方、集団の「しがらみ」が個人の私的生活領域にまでおよぶという特質があります。よくいえば緊密な仲間意識にひたって生活が送れますし、わるくいえば私生活がないに等しい状況になってしまいます。経済高度成長期であれば、会社の発展は個人の生活水準の向上をも意味していましたので、会社と個人生活との一体化は、個人にとっても都合のいい部分が多かったといっていいでしょう。しかし、バブル期前後に会社と個人の蜜月関係は崩れはじめました。好況のときは、意欲的なサラリーマンはキャリアアップを目指して転職し、不況のとき、企業は社員を容赦なくリストラしました。もはや組織は個人の生活を守ってはくれない。結果、「場」の原理は個人を束縛する面だけが残ってしまったのです。これが伝統的な社会に対する閉塞感をもたらしたと考えていいでしょう。<br />
　他方、「資格」の共通性の原理で形成される集団は、最初からなんらかの共通する属性を求心力にして集いますので、とくに結束を強制しなくても集団を維持できます。この「資格」という視点は、技能や趣味など個人が持つさまざまな属性のことですので、当然ながら個人は複数の「資格」を持つのが一般的です。結果、この原理のもとでは複数の集団に所属できますので、集団が個人を束縛する余地は低くなります。<br />
　中根は「場」への帰属原理の集団を「タテ社会」、「資格」原理の集団を「ヨコ社会」と呼びましたが、ヨコ社会には、「個人の生活の場とか、仕事の場のいかんにかかわらず、空間的・時間的な距離をこえて、集団はネットワークによって保持される可能性を持っている」（同書）と指摘しています。近年注目されているボランティア活動や、昨年の長野県知事選挙・千葉県知事選挙で当選候補側に出現した勝手連的支援グループもまた、中根の分析した集団の形成メカニズムを具体的にあらわしているといっていいでしょう。こうした集団のあり方を私たちは「ネットワーク社会」と呼びますが、意味するところは「ヨコ社会」とおなじです。<br />
　ネットワーク社会に対するもうひとつの意味あいとは、情報通信メディアが高度に発達し、個人生活の隅々にまで浸透した社会のことです。いまでこそインターネットがその主役となっておりますが、一九七〇年代に国鉄（当時）の「みどりの窓口」での発券業務や銀行の主幹業務などにコンピュータ端末が導入されたときにも、「オンライン化」というキーワードのもと、ネットワーク社会の到来がうたわれました。また、八〇年代にはいわゆるニューメディアが社会的に注目され、衛星放送、自動車電話、ビデオテックスなどのメディアが華々しく登場しました。このときにもネットワーク社会ということばがマスメディアに頻出したものです。<br />
　こうした点に注目するなら、ネットワーク社会というキーワードが持つ意味あいとしては、「情報通信ネットワークが浸透した社会」の方が歴史を持っていると解釈できます。しかし、おなじことばが繰り返されているにせよ、時代時代によって社会での受け止められ方に違いがあることに注意しなくてはいけません。<br />
　七〇年代の時点では、コンピュータ自体がまだ未来的な道具という意識が強く、企業活動や社会のごく一部ではあっても、コンピュータが入り込んできたことに驚きがあったのです。それに比べて八〇年代のニューメディア・ブーム時代には、コンピュータと通信との融合が進むと同時に、多彩なメディアの端末が家庭にまで入り込もうとしました。個人のライフスタイルがメディアによって激変しそうだという意識は、この時期に萌芽したと考えていいでしょう。しかし、多くの未来小説的なシステムが現実のものになろうとしたとはいっても、パソコンは性能的な制約が多かったうえに高価でしたし、データ通信のインフラそのものが整備の緒についたばかりでした。ＮＴＴのＩＮＳ（高度情報通信）構想は、「いったい（Ｉ）なにを（Ｎ）するの（Ｓ）？」の略だと揶揄されたものです。<br />
　それから十年を経て、九〇年代の半ばには、パソコンの性能は画像処理までおこなえるほどに高度化し、しかも個人にも普及しつつありました。アメリカでは多くの人がインターネットの電子メールなどを日常的に使い、日本でも大手パソコン通信サービスの利用者が百万人を越えるとともに、インターネット利用者も激増の兆しを見せました。ニューメディア時代には「絵に描いた餅」だったネットワーク社会は、技術面では現実化したのです。<br />
　その間、コンピュータ・ネットワークだけでなく、携帯電話が爆発的に普及しています。その前段階には、中小企業経営者がおもに使っていたペイジングシステム、通称ポケベルは女子高校生を中心に十代のコミュニケーション手段として浸透した時期がありました。九〇年代半ば以降の時代とは、インターネットだけでなく、個人が日常的なコミュニケーションに利用するメディアが一気に拡大した時期でもあるのです。<br />
　こうしたなかで、本来はまったく視点が異なるネットワーク社会という枠組みが、ほぼ一体化するような状況が生じてきました。いわば、ネットワーク上にネットワーク型の社会が築かれつつあったのです。
</p>
<h2 class="tit2">ネットワーク上のネットワーク</h2>
<p>
　都市社会学者の研究によりますと、日本の大都市圏に勤務するサラリーマン家庭では（ということは、日本社会の最大公約数的な家庭では）、夫の人間関係は会社中心に形成され、妻の交際範囲は自宅を中心にした地域内にとどまる傾向が強い、という結果が報告されています。これは職住分離環境と長距離通勤がもたらした結果で、たとえばフランスのパリのような「職・住・遊」混在環境と比べてみると、交際範囲の違いが生じるのはあきらかです。<br />
　パリでは職場・アパート・遊ぶ施設が街のなかに混在していますので、市民の多くは自宅から三〇分以内に勤務先がありますし、映画館やレストランなども自宅のすぐ近くにいくらでもあります。サラリーマンは午後五時に仕事を終えると五時半には自宅に着き、六時前にはデートの場所に行けることになります。当然ながら、お相手は会社の同僚である必要はなく、パリ市内に住む友人となら誰とでもアフター５の時間を過ごせるわけです。<br />
　これが東京勤務のサラリーマンとなると、埼玉や千葉の自宅との間の移動に片道で一時間以上もかかりますし、残業もあるでしょうから、自宅に着くのは早くて七時半でしょう。こうなると、ゆっくりと会える相手は勤務先が近くにあるか、おなじ職場の人だけになってしまいます。もちろんこの議論は、もっと細かく分析しなくてはいけないのですが、首都圏勤務のサラリーマンが「会社人間」になりがちなのは、交際面で必然的なところが大なのです。私たちの交際は、時間や距離という制約を大きく受けていることがおわかりいただけると思います。<br />
　そこに登場したのが、ポケベル、携帯電話、そしてインターネットなどのコミュニケーション手段です。これらの通信手段は、距離の制約から開放してくれることはいうまでもありません。しかも従来の固定電話に比べ、携帯電話はいつでもどこでも会話ができますし、ポケベルや電子メールなどは、好きな時間にメッセージを送ったり読んでりできるなど、時間の制約からも開放してくれます。常時持ち運べる携帯電話を用いた電子メールなど、「いつでもどこでも」という点では究極のツールといえるでしょう。<br />
　私はもともと出版関係の仕事をしておりましたが、じつはフリーの出版関係者の多くは、かなり早い時期からパソコン通信やインターネットを利用しておりました。不規則な仕事スケジュールをこなすフリーランスにとって、勤務時間は事実上二十四時間といってよく、仕事関係以外で人と会う余裕などほとんどありません。インターネットの電子メールや電子掲示板は、外部の人と接することのできる貴重な「窓」なのです。<br />
　おなじような状況が専業主婦にも見られます。このところ主婦がいわゆる「出会い系サイト」で知り合った人から、ストーキング行為を受けるといった事件が続きました。そんなところにアクセスするなど自業自得だ……と断じるのは簡単ですが、いろいろな物理的制約で人と接する機会のない人にとって、ネットワークが外界との唯一の設定であるかもしれない点を理解してください。<br />
　時間的な制約が少ない人でも、コミュニケーション手段はあらたな関係を築く契機をもたらしてくれます。十代の子どもたちにしても、緊密な関係を築くのは傷つけられそうで怖い、でも友だちはたくさんほしい、という発想に最もなじむ友だちづくりの方法は、おそらくネットワークを用いたコミュニケーションなのでしょう。
</p>
<h2 class="tit2">都会的な人間関係の功罪</h2>
<p>
　インターネット上の交流とは、具体的にはどういうコミュニケーションなのでしょうか？　細かく見ていくといろいろな方法がありますが、現在一般的なのは、電子メールや電子掲示板を用いた交流といっていいでしょう。電子メールというのは、コンピュータ・ネットワーク上に自分の「私書箱」を持ち、各個人の「私書箱」間で電子の「手紙」を交換する仕組みです。電子掲示板はネットワーク上の雑記帳のようなもので、そこに接続した者は誰でも自分のメッセージを書き残せますし、他の人が残したメッセージも読めます。<br />
　重要なことは、これらのコミュニケーションが基本的に文字のみでおこなわれ、さらに、本人が自己開示をしないかぎり、メッセージを残したのがどこのどういう人なのかがわからない（ことが多い）点です。電子メールは個人間のメディアですから、送信元のメールアドレスは表示されますが、それは一種の記号ですから、アドレスがわかったところで、どこの誰なのかわからないということはめずらしくありません。<br />
　こうした特徴は一般に「匿名性」といわれ、いわゆるネットワーク社会の負の部分と認識されがちです。しかし、匿名だからこそ日頃のしがらみを離れた交流が可能だという側面がありますし、そもそも文字だけの交流だから匿名的であるという発想が短絡的にすぎます。対面の状況でも匿名的な関係はいくらでも存在します。重要なことは、なぜ匿名性が受け入れられるのかを考えることです。そのキーワードは「都市生活」でしょう。<br />
　都市生活では人間関係の疎外が以前から指摘されています。曰く、マンション住民は隣人と挨拶をしないどころか顔すら知らないことがある、親身になって助けてくれる人がいない、得体の知れない人に突然襲いかかられるかもしれない等々。人間関係が疎外されている状態を、私はけっして推奨するつもりはありませんが、都会（とりわけ東京のような大都会）での生活というものは、いろいろな文化圏の人が集まっているがゆえに、地縁社会が発達した地域に比べて匿名性が高く、なおかつ「ドライ」な関係が好まれる点に留意するべきだと思います。逆にいえば、ドライな関係がなければ、おそらくは紛争が耐えない空間となってしまうでしょう。<br />
　このドライさが行き過ぎると疎外という結果になるわけですが、裏を返していえば、地域社会にだって互助精神が行き過ぎれば個人の抑圧につながるのとおなじことです。要は、地縁社会にも都会にも、それぞれ対極的な功罪があるというだけのことではないでしょうか。<br />
　日本社会での情勢は、都市化拡大の方向に進んでいるようです。その背景の一つに、市場経済の発達を見逃せません。東京のマンション住民は旅行のときに留守を任せられる隣人がいないという批判がありますが、都市生活者は警備会社のセキュリティ・サービスを選択できます。地縁社会なら人間関係を通じて得ている「サービス」を、都会では市場から購入できるわけです。必要なモノ・サービスは市場から調達するというライフスタイルもまた都市生活の特徴であり、いまや人間関係でさえ「購入」の対象になっている点を見逃すわけにはいきません。<br />
　地縁社会を基軸にした人間関係と、市場から調達した人間関係の最大の違いは、前者は関係自体が宿命的であるうえに、ひとたび築いてしまえば簡単には解消できないのに対し、後者は調達者が主体的に対象を選べるうえに、解消もまた簡単であるという点です。人間関係における「着脱」の容易さもまた都市的な特徴ですが、匿名性を前提にしたインターネット上の交流は、着脱という点ではこれ以上ないというほど好都合な仕組みなのです。<br />
　いつでもどこでも気軽に着脱可能な人間関係を調達できる便利な道具、それがインターネットであり、ネットワーク上のネットワーク社会とは、お手軽な人間関係の調達先として機能しているのです。もちろんこうして得られる関係は、伝統的な意味での緊密な関係にくらべれば、はるかに「薄口」といえるでしょう。これは良し悪しの問題ではなく、都市化や市場経済の進展と同ベクトルの流れなのです。ネットワーク社会以前にさまざまな人間関係を築いた「旧世代」にとって、これは不気味な現象かもしれませんが、ネットワーク世代にとっては旧世代の人間関係こそ不可解と映っているはずです。重要なことは、人間関係の形成にもいろいろなメカニズムがある点をお互いに理解しあうことでしょう。<br />
（おわり）
</p>

<table cellspacing="0">
<tr>
  <td rowspan="2" class="stripe"><div class="cnt"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121015169/qid=1143217347/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-1044198-9544204" target="_new"><img src="http://www.eshita-labo.org/lecture/bibliographie/networksociety.jpg" class="w150"></a></div></td>
  <th class="cellgray" colspan="2">ネットワーク社会の深層構造<br /><span class="subhead11">—「薄口」の人間関係へ—</span></th>
</tr>
<tr>
  <td>江下雅之／著<br />中央公論新社 中公新書<br />2000年1月、882円<hr>現在、第2刷が発売中です。<a href="http://www.taf.or.jp/award/prize/16_telecom.html" target="_new">第16回テレコム社会科学賞</a>を受賞したほか、多数の小論文試験に本文の一部が使用されています。ゼミのテキストとしての採用例多数！</td>
</tr>
</table>
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   </content>
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   <title>巻頭エッセイ</title>
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   <id>tag:www.eshita-labo.org,2001:/articles//4.208</id>
   
   <published>2001-06-30T17:01:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T12:46:04Z</updated>
   
   <summary>TAFクォータリー（財団法人電気通信普及財団/発行）2001年7月号 江下雅之...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="雑誌2001" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      TAFクォータリー（財団法人電気通信普及財団/発行）2001年7月号
江下雅之


      <![CDATA[<p>
　毎週金曜の夜になると、一万人以上のローラースケーターがパリ市内の道を滑走する。一九九七年にはじまった「パリ・ローラー」と呼ばれるこのスポーツイベントには、世界中の愛好家が集う。七年間におよんだパリ滞在の最後の年となった九九年には、わたしも毎週のようにこのイベントに参加した。<br />
　参加のための注意事項はパリ・ローラーの専用サイト（http://www.pari-roller.com/）に掲載されている。滑走コースも前日午後にはこのページで発表される。わたしはかならずここにアクセスして事前にコースを確認していたし、参加者のなかには掲載されるコース図をプリントアウトして持参する者も多かった。小グループで参加する人たちにとっては、携帯電話もまた必携品だ。天候がいい時期には二万人近くが参加するので、仲間と一緒にスタートしてもすぐに離れ離れになってしまうからだ。<br />
　イベントにはじめて参加したとき、インターネットでルートを確認し、ごくあたりまえに携帯電話を使う人々の風景を見て、フランスの通信事情もほんの一、二年で激変したものだと実感した。日本のマスコミ報道では日本の「通信後進国」ぶりを強調しがちだが、フランスではインターネットも携帯電話もはるかに普及が遅かった。電話代とてずいぶんと高く、「せめてＮＴＴぐらいの料金になってくれないか」とは、多くの在仏日本人ネットワーカーの声だった。携帯電話は端末の性能が悪く、わたしが九六年に購入した電話機など、待ち受け時間がわずか十六時間だった。日本でのめざましいサービスの拡大や料金の値下がり、機器の進化がうらやましかったものだ。<br />
　そのフランスでも、九八年ごろから火が噴いたようにインターネットや携帯のブームが始まった。結局、フランスの消費者というのは、あたらしいサービスや機器が登場しても、自分にとっての利点を見きわめるまでは手を出さないのである。周辺の国で普及しているからとか、ライバルの国に負けないためにとかという発想が希薄なのだ。あくまでも自分のライフスタイルを中心に判断している。それに比べると、日本ではＩＴ戦略などと称し、やたらと他者との比較や競争意識が前面に出てはいまいか。ライフスタイルとの親和性を無視し、いたずらに普及率を論じることに、いかなる意味があるのか。そういう発想は、結局は道路や橋を光ファイバーやＡＤＳＬに置き換えただけであり、悪名高い「ハコモノ行政」とおなじ感覚である点に、そろそろ気づいていいのではないか。
</p>
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   <title>個人情報「国家管理」の実態</title>
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   <published>2001-03-23T17:01:01Z</published>
   <updated>2007-01-06T09:35:05Z</updated>
   
   <summary>ここまで把握されている！　個人情報「国家管理」の実態 週刊ダイヤモンド（ダイヤモ...</summary>
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         <category term="雑誌2001" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      ここまで把握されている！　個人情報「国家管理」の実態
週刊ダイヤモンド（ダイヤモンド社/発行）2001年3月24日号pp.44-45掲載
江下雅之

      <![CDATA[<p>
　起床後、いつものようにテレビのスイッチを入れると、内蔵ハードディスクにビデオニュースが数本届いていた。放送局のサーバーが見たいニュースだけを選りすぐって送ってくれる。<br />
　ニュースを見終えてから、朝食の用意に取りかかる。冷蔵庫は一日分の量を入れられるだけの大きさしかない。内蔵コンピュータが食料品の消費状況を常時チェックし、必要に応じて自動的に近所のコンビニに発注する。<br />
　朝食後は洗顔とトイレに。洗面台の大型液晶モニターに上半身の姿が映し出される。電話がかかってくれば、そのままテレビ電話として使える仕組みだ。トイレに入ればセンサーがメディカルチェックを行ない、異常があればネットワークを介して対策を講じてくれる−−。<br />
　　☆<br />
　以上は二〇××年のある日の朝における日常風景の一コマだ。この種のテクノロジー物語は、インターネットの普及によって俄然、現実味を帯びている。<br />
　一九八〇年代からすでに家電製品や空調機器などにはマイコンが搭載され、特定機能を持った"コンピュータ"と化した。自動車も然りである。エンジンは高度なMPUで制御され、サスペンションや操舵系統にも電子制御が取り入られ、ついにはカーナビなど運転を支援する端末も普及し始めた。自動車とは、いまやコンピュータの塊なのだ。<br />
　個々にコンピュータ化が進められた機器類がネットワークを通じて有機的に結合されれば、冒頭に示したストーリーは夢ではなくなる。インターネットは急速に普及しており、携帯電話からも接続できるようになった。加えて、そして首相の施政方針演説でも言及された"IPv6"というプロトコルによって、インターネットに接続できる端末の数は無限大に拡大する可能性がある。先述した家電製品、自動車などもネットワークにつながるだろう。<br />
　冒頭のストーリーは二〇××年ではなく、二〇〇×年にも実現するかもしれない。
</p>

<h2 class="tit2">自動車の通行記録から<br />通信内容まで国が「監視」</h2>
<p>
　しかし、光が強ければ強いほど影も濃くなるように、享受できる利便性が大きければ大きいほど、それと引き替えにもたらされる脅威も深刻となる。バラ色のネットワーク社会の裏側にあるのは、牢獄状態ともいうべき苛烈な監視社会である。<br />
　冒頭のストーリーについても、見方を変えればそのまま次のように読み替えられる。
「誰かがいつもあなたの見たいニュースをチェックしている。誰かがあなたの起きがけの姿を覗いている。誰かがあなたの食生活を管理している。誰かがあなたの虫歯の数から大小便の中身まで知っている。あなたが意図しなくても、自動的に伝わっている」<br />
　さまざまなサービスを享受できるかわりに、二〇××年のあなたの個人情報は二十四時間、誰かの視線にさらされている。そして、その誰かとは、場合によっては「国家」かもしれないのだ。<br />
　絵空事ではない。すでに、個人情報管理の兆候は現れている。たとえば、高速道路だ。料金所ではナンバープレートがカメラに撮影され、通行券にナンバーの下二桁が刻印される。道路にはあちこちに通称「オービス」と呼ばれる速度自動監視器がある。さらにここ十数年、警察庁の自動車ナンバー自動読み取り装置（通称「Nシステム」）が、国道や高速道路を通行する自動車のナンバーを網羅的に記録している。<br />
　全国規模で個人の通行記録を捕捉するのだから、監視装置としてはコンビニなどの防犯カメラとは桁違いに強力だ。<br />
　しかしこのNシステムでさえも、ネットワークが浸透した近未来社会で実現しうる監視システムに比べれば、まだまだ「寛大」といえる。Nシステムはカメラの前を通過する車のナンバーを記録するだけの、いわば受け身の監視装置だ。ところが、もはやコンピュータの塊である自動車が、なんらかのサービスを利用するためにネットワークに接続していればどうなるか。自動車が勝手に自らの所在を監視者に知らせてしまうことになる。<br />
　しかも、我々を監視している装置は「目」だけではない。いたるところに「耳」もある。すでに国家レベルで巨大な通信傍受システムが構築されているということが、イギリスやニュージーランドのジャーナリストたちによって明らかになった。<br />
「エシュロン」と呼ばれるそのシステムは、第二次大戦後間もなくアメリカとイギリスとの秘密協定によって構築が始まった。冷戦時代には東側諸国のミサイル発射信号を察知すべく、世界各地の米軍基地に傍受用の巨大なパラボラアンテナが建設された。そして冷戦終結後、パラボラアンテナは電話などの地上波中継局に向けられ、米国の国家安全保障局（NSA）が中心になって運営されているという。米英によって極秘裏に構築された傍受システムは、九〇年代末に欧州議会で大スキャンダルに発展した。<br />
　エシュロンは全世界の通信や電子メールを傍受対象にでき、傍受された通信は中継基地を経て米国のNSA本部に転送され、キーワードごとにデータベース化される。「日本赤軍」というキーワードを入力すれば、それに対応した通信記録を瞬時に検索できる。エシュロンは、世界中のあらゆる通話を常時監視しているわけではない。しかし、その気になれば、世界中の通信内容をエシュロンの監視下に置きうるようだ。<br />
　個人の行動を監視する国家の「目」と「耳」は、すでに動き始めているのである。
</p>

<h2 class="tit2">国家による監視なくして<br />利便性享受はあり得ないジレンマ</h2>
<p>
　もっとも、国家による「監視」が無条件に「悪」だとは言い切れない。Nシステムが実際に犯罪捜査で威力を発揮したことは、効率の点で議論の余地はあるが、認めないわけにはいかないだろう。坂本弁護士一家殺害事件やルーシー・ブラックマンさん失踪事件でも、容疑者の足跡はNシステムから把握された。エシュロンについても、国際的なテロリストの検挙に威力を発揮したという指摘がある。<br />
　治安以外の面でも、国家の監視を許容することで多くの実益が得られる。たとえば、国民総背番号制だ。語感からしていかにも弾圧的なこの制度は、人権問題に敏感なEU諸国ですら、統一的な社会保障番号というかたちですでに浸透している。そういう国では社会保障番号がないと正規の報酬活動には就けない。納税申告でも健康保険でも社会保障番号が必須だ。公的負担の徴収を公正に進めたり、事務を簡素化するためには、総背番号制は合理的な仕組みといえる。<br />
　いわゆる電子マネーにしたところで、本格的な普及を進めるには統合的な個人情報管理が不可欠で、総背番号が必要となってしまうだろう。ネットワーク社会は匿名社会だなどという指摘もあるが、商取引に関しては、まったく逆の側面がある。現金ほど匿名性の高いシステムはない。誰が持っていようと、一万円札は一万円の価値を発揮できる。しかし、電子マネーという制度は、取引のたびに「誰が支払うのか」を厳密に確認する手続きが不可欠だ。<br />
　アメリカやフランスでクレジットカードやデビットカードが普及した背景には、個人の信用力を基盤にした個人小切手が浸透していたという前提がある。カード化は信用照会をスムーズに進める合理的な目的に適っていた。かたや、個人消費では現金取引が中心の日本では、電子マネーの普及とは、慣れ親しんできた匿名社会を放棄し、個人の支払能力を逐次監視される状況を、ゼロから受け入れるという根本的な転換を意味する。<br />
　このように、ネットワーク化の利便性を享受するには、監視を許容するという交換条件が避けられない。逆に、監視を許すことではじめて、ネットワーク化の恩恵が得られるともいえる。バラ色のネットワーク社会像を描いたり、監視のデメリットを過度に警戒することには意味がない。監視を許すだけの利点があるのかどうかを常に点検し、「監視される国民」が「監視する国家」を監視し得るシステムを確立することこそが重要なのだ。
</p>

<table class="r100" cellspacing="0">
<tr>
  <td rowspan="2" class="stripe"><div class="cnt"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062722429/qid=1143217347/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-1044198-9544204" target="_new"><img src="http://www.eshita-labo.org/lecture/bibliographie/surveillance.jpg" class="w120"></a></div></td>
  <th class="cellgray">監視カメラ社会<br /><span class="fnt11">—もうプライバシーは存在しない—</span></th>
</tr>
<tr>
  <td>江下雅之／著　講談社＋α新書<br />2004年2月、882円<hr />2004年上期に16件の書評が掲載されるなど、多方面で注目されています。</td>
</tr>
</table>
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   </content>
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   <title>掲載誌：別冊宝島REAL</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.eshita-labo.org/articles/2000/12/real.html" />
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   <published>2000-12-18T17:01:02Z</published>
   <updated>2007-01-06T10:01:04Z</updated>
   
   <summary>不定期、宝島社/発行 宝島社の「別冊」のなかで、ノンフィクション系の読み物中心の...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="単独原稿" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.eshita-labo.org/articles/">
      不定期、宝島社/発行
宝島社の「別冊」のなかで、ノンフィクション系の読み物中心の構成を取っているムックが「REAL」シリーズとして時々発行されている。最近のタイトルに、『実録！平成日本タブー大全』『謀略の昭和裏面史』『男女平等バカ』などがある。

      
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