2022年度:問題分析ゼミ[3]

2022年度問題分析ゼミ第3回の議事録です。

日時:2022年4月26日(火)15:20~18:30
会場:駿河台キャンパス リバティータワー 14階 1141教室
参加者:21名
江下、米田G(5名)、山岡G(5名)、三浦G(5名)、村川G(5名)
欠席者:0名
遅刻者:0名

1.グループ発表
(1)米田グループ
・発表者:斎藤、劉
・課題本:『興行師たちの映画史』(柳下毅一郎著、青土社、2018)
・発表範囲:第5章トッド・ブラウニングとカーニバル映画、第6章 セックスポロテーション映画の隆盛
[概要]
第5章
 巡業カーニバルで働いていたブラウニングは映画界監督業へ専念する。その後、チャニイとコンビを組むことで、エキゾチックであったり身体障害をテーマにした見世物映画を残した。しかし、トーキー映画へ移行する際に失速していった。
 エド・ウッドは史上最低の映画監督と呼ばれている。フレッド・オーレン・レイはウッドの残した映画脚本を映画化しようとした。
第6章
 初期に登場したセックス映画は性教育映画であり、教育的要素が強調されていた。その後、性への禁忌が緩やかになったことでヌード映画、セックス映画と登場するが、ハードコアポルノの誕生によってセックス映画は衰退した。
〈質疑応答〉
質問1:ブラウニングが酒に溺れた理由
回答:深酒を制御できなかった。
質問2:映画のプロダクションコードがある中でデミルはヌード映画を作ったが、MPPDA(全米映画製作配給者協会)の会長と仲が良かったことで、お目こぼしをもらったのか
回答:MPPDAが結成された後に会長と親しくなったデミルはヌード映画の中でもキリスト教の道徳的な部分を強調することでヌード映画をつくり続けることができた。
質問3:サイレント映画として作られたはずの『法の外』がトーキー映画の欄にあるのはなぜ
回答:リメイク
質問4:ヌード映画とヌーディスト映画の違い
回答:ヌード映画は裸体をみせるもの。ヌーディスト映画はヌーディストを題材にすることで当たり前のように裸体をみせつけるもの。
質問5:ヌーディスト映画がジャンルとして確立された背景
回答:ヌーディスト運動を題材にすれば、裸体を映せるのに都合がいい。
補足:ヨーロッパの方がアメリカよりも性表現への規制が緩かった理由は、アメリカにおいて移民開放運動によって規制が強くなったから。

(2)三浦グループ
・発表者:飛世
・課題本:『新版ハリウッド100年史講義』(北野圭介著、平凡社、2001)
・発表範囲:第5章 70年代以降 生産工場からエンターテイメント・ビジネスへ
[概要]
 70年代、実力あるスタッフの登用による成功見込みのある作品製作、テレビとの緊密な連携による産業体制の改革、イベント性の強いハイ・コンセプト型映画の製作によって、ハリウッドは復活を遂げた。
〈質疑応答〉
質問1:ノスタルジーが社会背景とつながる理由
回答:詳しく書いてない。
質問2:映画宣伝の二次的三次的利用の具体例
回答:映画のコマーシャルをテレビで宣伝した後に、映画を公開。映画のテレビ放映権や映画グッズなどで収益を上げること。
質問3:イベント性の高い映画とは、また映画公開のイベント化の繋がりについて
回答:スペクタクル性の高い映画のこと。映画をイベント化させるために、イベント性の高い映画を公開した。
補足:
・大作映画とは多額の予算かけられた映画のこと。e.g.『アラビアのロレンス』『風と共に去りぬ』最近だと、ジェームズ・キャメロン、フランシス・コッポラ監督の作品が挙げられる。
・日本におけるハイ・コンセプト映画の例は『セーラー服と機関銃』。
・アメリカでは現在、映像産業は大規模グループに集約されている。

(3) 山岡グループ
・発表者:荒木
・課題本:『ハリウッド映画史講義』(蓮實重彦著、ちくま学芸文庫、2017)
・発表範囲:第2章 絢爛豪華を遠く離れて 「B 級映画」をめぐって
[概要]
「B級映画(B pictures)」とは、30年代始めに一般化した二本立興行の前座として本編の前に上映される短い作品のことである。「B級映画」はその単純さの不気味な魅力で人々をひきつけ、ハリウッドの不況を一時的に救った。しかし、二本立興行の衰退と共に40年代末期にはB級映画は消滅することになった。
〈質疑応答〉
質問1:なぜ数年間の間に観客の数が半数に減ってしまったのか
回答:テレビなどに客がとられたから。
質問2:過酷な単純さに映画をあわせる必要があったのか
回答:B級映画は過酷な単純さがない。
質問3:真の意味でのB級映画とあるが、B級映画の意味を見出そうとする人はいるのか
回答:筆者の中では多くの人がそう思っているという解釈。

(4) 村川グループ
・発表者:川添
・課題本:『フランス映画史の誘惑』(中条省平著、集英社、2003)
・発表範囲:第五章 天才と巨人 第六章 占領と解放
[概要]
第5章
 ギドリとパニョルは当時のフランスで大衆的な人気のある映画監督であった。しかし、長い間〈フィルム・ダール〉の伝統につらなる「芝居の記録映画」といった偏見から芸術的には過小評価されていた。
 ヴィゴは記録映画と幻想映画の一致点を画面に実現した映画作家である。しかし、彼に対する評価が高まったのは彼の死後からずいぶん経ってからだった。
 ルノワールは時代の制約やスタイルの統一性を完全に無効にするほどの巨大なスケールをもつ、世界最大級の映画作家である。
第6章
 世界大戦においてパリがドイツ軍に占領される中で、誌的レアリスムの第2世代は映画作りに取り組んだ。特に意欲的な作品の製作を目指す映画人の一部は、ナチスの支配の強固なパリを逃れ、南仏に集まった。そこで3年にわたる撮影をかけて製作された『天井桟敷の人々』の上映はファシズムに対するフランス映画の勝利をしるす決定的な出来事となった。
〈質疑応答〉
質問1:ヴィゴはなぜ呪われた作家と呼ばれたのか
回答:作品が上映禁止になったり、配給会社によって作品が改変させられたりしたため。
質問2:ルノワールのスケールが大きいとは具体的に何が大きいのか
回答:誌的レアリスムの時代の中で、誌的レアリスムの様式の制約にとらわれない点。
質問3:ムッソリーニは誰、なんでルノワールと会ったの
回答:ファシストのムッソリーニ。映画好きだったから。
質問4:ルノワールが映画の父と呼ばれた理由
回答:後世の映画監督がルノワールの影響を受けたから。
質問5:反フランス的とは具体的にどのようなことを指すのか
回答:内容の中で貴族とブルジョワが入り乱れており、フランスに対する反逆的な内容を含んでいた点。
質問6:ギドリとパニョルの映画は日本に輸入されなかったのか
回答:フランス的な個性が強すぎるため、日本に輸入されなかった。
質問7:印象派は日本に受けたが、誌的レアリスムが日本に輸入しなかったのはなぜ
回答:なぜかは分からないが、誌的レアリスムの作品はほとんど輸出されなかった。
補足:
・アメリカ映画史において二本立興行の前座にB級映画を流しているが、昔の日本でも二本立興行を行っていた。日本では前座に新人のデビュー作などを流していた。
・30年代前半、映画の観客数が減少した理由の一つが不況であった。不況の中でラジオだけは売れ続けていため、失業者が放送業界に流れていき、ラジオの内容が充実していった。その結果、客層をラジオに奪われる形になった。
・ドイツに占領下の中でフランスメディアは追い込まれた。しかし、その中でも工夫して情報を発信していた。
・記号の使い方
例を表すときにex)を使う人がいるが、正しくはe.g.

2. 反省
積極的な質疑応答があり、活発なゼミ内容となっていた。

作成:榎本
編集:三浦