2022年度:問題分析ゼミ[10]

2022年度問題分析ゼミ第10回の議事録です。

日時:2022年6月21日(火)15:20-19:30
会場:リバティータワー1141教室
参加者:20名
江下、村川G(5名)、三浦G(5名)、米田G(5名)、山岡G(4名)
欠席者:1名
遅刻者:0名

1 グループ発表
(1)三浦グループ
・発表者:飛世・稲葉
・課題本:『ケータイ社会論』(岡田朋之・松田美佐、2012)
・発表範囲:第1章 ケータイから学ぶということ、第2章 ケータイの誕生 第3章 ケータイの多機能化をめぐって

[概要]
第1章
情報化政策とは別に発展を遂げ、身近になったケータイの状況を明らかにし、現代の情
報化社会を捉え直すことが本書の趣旨である。
第2章
ケータイは90年代まで、所有しないのが当たり前であり、ポケベルが普及していた。
2000年前後でケータイは普及し、機能も色々と加わりマルチメディア化した。
第3章
ケータイは携帯電話市場の成熟化を受けて、多様機能化していった。
〈質疑応答〉
質問1:携帯小説について、過激な内容のものは規制されることはあったのか。
回答:そもそも普通の本は執筆者以外に編集者や上司が関わっているが、ケータイ小説は、編集者などの校閲、介在がなかった。規制がなかったかは本書には書かれていないが、比較的自由度が高かったのではないか。
質問2:2章の若者は電話よりも文字コミュニケーションの特性を評価したとあったが、なぜなのか。
回答:電話は夜にしたら迷惑などと考えられていたが、メールならば相手の都合にとらわれずやりとりができ、そこに快楽を感じた。相手の都合に縛られなくてよい。
質問3:1章の、ヴァナキュラーについて、民衆の社会生活に埋め込まれていないということは理解したが、市場生活の中に組み込まれていないということについて、売り手の思惑もあるのに埋め込まれていないというのはどういうことか。
回答:学校教育とか情報化制作に組み込まれていないということはこの部分にあった通りである。今iPadなどのITは、昔は使用禁止であったりした。法的制度には組み込まれていない。その一文しか書かれていない。
補足:ヴァナキュラーとは、土着という言葉を使うのが一般的。コスモポリタンが対立後。中世ヨーロッパではコスモスの言語、土着の言語。=ヴァナキュラーである。日本では電話のやり取りはこそこそしなければならないが、他国では堂々と行う。そういった土着性である。

(2)山岡グループ
・発表者:山﨑・榎本・荒木
・課題本:『ケータイの2000年代 成熟するモバイル社会』(松田美佐・土橋臣吾・辻泉、2014)
・発表範囲:序章 ケータイの2000年代、第1章 メディア利用の進化編、第2章 モバイルは他のメディアとどう違うのか 

[概要]
序章
ケータイは1990年代後半にマルチメディア化し、メディア依存は問題されるほどであるが、ケータイの利用は日常化していく。
第1章
ケータイネットは実用的なツールへと変化し、サービスも多様化した
第2章
ケータイは友人関係を促進するという一般的な傾向がみられるが、とくに友達と途切れ
なく連絡する利用の仕方が友人関係の維持に貢献する。一方で、40歳未満・以上では、
ケータイの持つ意味が異なることがわかった。
〈質疑応答〉
質問1:筆者がメールという言葉を利用していて、2001年から2011年でメールが増えたといっているが、純粋にEメールの送受信だけなのか、SNSの利用も含まれているのか。
回答:本の内容としては、ケータイメールのみである。SNSは新規のソーシャルメディアとして扱われていた。データでは、もともと含まれているEメールを取り扱っている。携帯メール以外のSNSは含まれていない。
補足:技術的な規格の問題があり、携帯電話は最初アナログでこれは第1世代。アナログなので、電話しか使えなかった。90年代後半には国によって規格が割れた。アメリカと日本。ヨーロッパのGSMでショートメッセージが仕えた。日本のケータイがガラパゴスと呼ばれたのは第3世代。iモードは日本国内では大成功。日本ローカルの大ヒット。。iモードメールは厳密にはNTTドコモのサービスだが、実質はインターネットメールとして利用できた。ヨーロッパはショートメッセージ。事実的にはインターネットメール。ショートメッセージと互換性のある規格にしたため、メールが中心であった。mixiが2007年に始まったが、そのころはパソコン利用が前提であった。スマホが出てきてからmixiのアプリができたが、模範。使い勝手が悪かった。2011年時点でもスマホの一部はショートメッセージやTwitterではできたが、ガラケーではインターネットメールが主であった。治術的な過渡期。LINEやWhatsAppなどの機能も同一視されていた。
質問2:G2の時点で日本の携帯電話はガラパゴスであるか。
補足:基本的にはそうである。第3世代になってできることが増え、日本が先走ってしまった。着メロなど。GSM企画はケータイの中でショートメッセージを組み込んだ。LINEはWi-Fiがあれば使える。4Gとかでも使える。日本では大体の場所で使用が可能だが、ヨーロッパではたまにある。アンテナはあり、電話はできるが、LINEなどは使用できない。ショートメッセージは使える。辺鄙な場所、戦場などだとショートメッセージはできる。そういう意味で、通話とショートメッセージは同じ括りである。ショートメッセージは日本が取り残された規格の1つである。
質問3:ケータイでのメール利用の変化のところで、通過儀礼説が裏付けられているというのがあったが、2011年頃からSNSが出てきたため、若い人たちのケータイ依存度は変わっていないのではないか。
回答:解消されたということではなく、友達の数が根礼装によって変わるという話である。10代は平均的にメールのやりとりが多い。それは、人間関係を気づいていく上でもメール数が多くなるためである。10代というところでみんなが経験するものであるという。メールのやりとりが減ることで、ケータイを見る頻度も減るのだからメール依存=ケータイ依存と考えてよいのではないか。
補足:それより前からSNS的なものはあった。小学生でもガラケーを使えたため、プロフは小学生も使っていた。プロフは自己紹介サイト。ガラケーでも使えた。しかし、殺人事件が起きてしまう。佐世保小学生殺人事件。ネバダ事件。あまり考えなくてもよい。2011年時点でもSNS的なものがあったということは考慮すべき。2011年時点ではおそらくSNSの利用頻度が高いと考えてはいけない。今の30代くらいがプロフをよく使っていた世代。

(3)米田グループ
・発表者:米田
・課題本:『ポスト・モバイル社会 セカンドオフラインの時代へ』(富田英典、2016)
・発表範囲:序章 メディア状況の概観とセカンドオフライン、第1章 ケータイ前史、第2章 モバイル先進国を生んだ業界事情

[概要]
序章
近年変わりつつあるメディア利用の方法にはセカンドオフラインという概念が関連している。このようなメディア感覚が登場するまでのメディア利用の歴史について概観していく。
第1章
モバイル技術が登場する以前にも存在していたコミュニケーション実践の在り方を、「テレプレゼンス」概念を用いて探究する。
第2章
モバイルEメールの成立過程にてついて、そしてiモードとM-stageを中心にインターネット接続サービスがどのように整備されていったか、また携帯電話にデジタルカメラが内蔵されるようになった経緯について検討する。
〈質疑応答〉
質問1:セカンドオフラインはARのように、オンラインで現実世界を再現するということではなく、現実世界にオンラインを持ちこむということなのか。
回答:現実世界にオンラインを重ねていく。オフラインがベースで、オンラインを重ねていくものである。
質問2:ユビキタスからセカンドオフラインへ動き始めているとあったが、両者の違いは何か。常にモバイルを参照しているという点で同じではないか。
補足:こういうことを理解しているという前提のうえで書いている。その前提をどこまで理解しているかで解釈が変わってくる。コミュニケーション論や、社会学的なところの細かい話なので、まだ授業で行っていないため、理解は難しい。著者は新しい言葉を使うのが好きな人である。セカンドオフラインはジャックインと現象としては同じことである。
例えば、A、Bという2人の人間が会話をする。シャノンウィナーモデルである。Aが会話を始めてコミュニケーションが始まったという考え方。送り手の主導から始まったか、受け手から始まったかで考えるかで大きな違いが生じる。Bが話しかけられてから始まったという考え方は、G.H.ミードの考え方である。自我とは何か。究極的には自己対話である。今のコミュニケーション論はミードの考えを元にしていることが多い。(
ここで、Cが出てくる。AはCに話しかけたつもりでもBが反応し、Cが無視をする可能性がある。受け手の方からコミュニケーションが始まるという考えが合理的だという理由は、玉は送ったところで受け止められるという前提があるから。誤爆でも、受け止めて返事をするということができる。Cは無視をして仕舞えばコミュニケーションは成り立っていない。人の認識まで考えるならば、受け手の主導から始まると考えるべき。
Bの頭の中を考えてみると、会話をしているAと会話をしているBがいる。自分と相手が浮かんだ時点でコミュニケーションが始まる。自我論に関わるかというと、自分とは何なのかということを考える際、それを決定するには他の人の存在があって自分を認めるから。何で自分は嫌なやつなのか。何で自分を拍手するのか。自分の中にいる他者が嫌な奴と評価するから、拍手するから。脳内のコミュニケーション。
手紙は紙にして相手に送る。それに対して返事を書く。手紙を読む際に、相手が親しい人間であるならば手紙を読むことを通じて手紙の内容を読む相手の表情を考えたり相手の温もりを考えたりしながら読む。事務的な連絡だと必ずしもそういうわけではない。ラブレターなどは、特定の人格を想像しながら執筆する。行間からこの言葉をどういう気持ちで書いているのかを考える。脳内で相手が自分にどう接しているかを考える。
A,B,C。同じメッセージでも解釈によって異なる。常に意識の中に相手の存在を描き、どういう感情表現をしているかを考える。実際に自分が。学校で先生が怒っていそうだと考える。脳内でコミュニケーション世界を展開している。
ARとは。情報世界がある。物理的な世界に自分の感覚を意識し、その状況を理解する。空気を読むというのはそういうこと、すごく熱心に聞いている6人と聞いていない人を脳内で考える。あくまで主観的。意識世界の中に情報社会で重ねられたもの。例えば、「世界カメラ」というサービスがある。iPhoneのアプリ。カメラをかざすと物理的な光景に加え、エアタグというタグがつく、山の名前や高さが現れる。VRでもないし情報空間が重なっているので、現実を拡張している。AR。
他の例として、「電脳コイル」というアニメがある。2008年の日本SF大賞を受賞した。ARとはというところがよくわかる。スマートグラスの究極が電脳メガネ。メガネ越しにみる世界は。電脳ペット伝助は電脳メガネをかけると見える。AR化された世界では情報化された社会でキーボードを叩いている。
バーチャル=実質的なの反対はリアルではない。Nominal=名目上の。リアルの反対はimaginary。言葉上では対比関係にない。バーチャルというかというと、実質的に機能するという意味。時計は時間を知らせる道具。スマホ見ると時間が表示されている。実質的に時計があるのと同じこと、実質的な時計はアクセサリーという性格が強い。かつて機械で行なっていたことが実質的に。LINEで通話をタップすると、実質的に電話をするということ。実質的に何かを作り上げているということになる。ものが構築していた機能をアプリが実質的に再現している。
ウォークマンとiPodの違い。バーチャル化ということを考える時に重要なことが、一度に1000曲聞く人はいないのでMDで事足りる。1日で1000曲聞く人はいない。それ以上入るiPodが優ったのは、音楽を聴くというのは家で聴くとイコールであったという点である。家にはCDがある。オリジナルのアルバムを作れる。iPodが出る前にiTunes musicというサービスができた。それを使うと、当時パソコンにはCDドライブがあったため、データを変換して取り入れることができた。パソコンに取り込んだ音楽をダウンロードし、曲やアルバム名を入れてくれる。音域設定もできる。ジャズに適した音域など。プレイリストを設定し、ドラッグするだけで自分の好きな音楽が聴ける。自分の家の中で手作業で行っていたものが、パソコン上で完結する。iPodがシンクロしてコピーした。自分が親しむ音楽を持ち運べる。
電車内だろうがカフェだろうが家と同じような音楽体験ができる。ウォークマンだとその時その音楽を持っていないと聞けない。カセットテープを十本持ち歩けるケースを持っていた。ものでは実現できない。(
ユビキタスは至る所にコンピューターを接続させるという考え方。必要なものはクラウドにアップロード。現在はユビキタスよりも発展してしまった。Wi-Fiのようなモバイル環境が空気と同じように充満しており、ネットに接続すれば、実質的にあらゆるところがオフィス、自宅になりうる。これがセカンドオフライン。ジャックインする=入り込む。冨田さんの場合は、重ね合わされた状態をセカンドオフラインと呼んでいる。
言語学的な考え方である。情コミの学生は言語学の基礎は必要。言語学は、虹は7色。英語圏では6色。東欧のどこかは8色。色は客観的なものなのに。虹の色はグラデーションなので、徐々に変化する中で、ここからここまでは赤、青、紫と決めているが、境界線の違いで変わってきてしまう。
蛾、蝶。夜の蝶という言葉があるが、艶やかな姿を夜の蝶という。これは褒め言葉である。夜の蛾と言ったらあまりよいイメージではない。蛾と蝶の間には明確な境界線がある。英語もフランス語も両者の区別は同じ。ネズミ、ラットとマウスがある。マウスのことはラットと言わない。ラットはドブネズミ。マウスはハムスターやモルモットのこと。ウサギはフランス語で2通りあり、一方は食用。
ではどこで境界線を引くのか。写っている視覚的な情報は。言語的な解釈によっては情報処理されている。言語的なプロセスで。認識の違いに関しては、言語学の考え方が重要になってくる。権力の犬というのは、飼い主に忠実である、飼い主の言うことだけに従うような犬。猫のような役割を果たしている人がいる。前提になるのが、言語的な解釈によって出来上がる。
人は4歳までの記憶はない。言語能力の獲得。言語能力が発達していないときの記憶はない。2歳3歳でも認識はしているが、記憶として残せない。バーチャルな世界は、言語的な世界でのアウトプット。
質問3:ユビキタスとセカンドオフラインの状況では異なるということか。
補足:ハードウェアの場合はあくまで道具である。どこでも計算できる。セカンドオフライン的な感覚では計算する機能はクラウド上にあるのでスマホ立ち上げればできる。Siriに聞けばすぐわかる。携帯電話は、最初期は重さ3キロ、この時点での携帯電話は電話機を持ち歩いている。それまでは有線だった。無線なので持ち運べる。どこでも電話ができる。ユビキタスというのはどこにでも電話環境がある。トイレに行っても。寝室に行っても、外でも3mおきにある。これユビキタス。誰かとコミュニケーションすることがしたい。コミュニケーションできる第三者とその空間に入り込んで音声メッセージを残せば実質的に電話できる。これがセカンドオフライン的な考え方。どこでもアクセスできる状態があればいい。つながったから電話しようとなるのがユビキタス。場所がある。今すでにセカンドオフライン的な状況。
モバイルというのは一体何を携帯するのか。ユビキタスで言えば音楽最盛期、電話。ジャックインやセカンドオフラインは環境を持ち歩いている。環境にジャックインするデバイスを持ち歩いている。
質問4:1章のテレプレゼンス概念のところで、電子郵便がすぐに衰退した話があったが、郵便の際に行われていたテレプレゼンスが根付かなかった理由は何か。
回答:本に記載なし
補足:自分がテキストを受け取り、書いた紙が郵送されるのが郵便。輸送部分を電子化したのが。輸送のプロセスを電子化し、軽量化したものに過ぎない。テレプレゼンスにはならない。メールの場合は、相手の表情を想像しながら書くというのがテレプレゼンス。電子郵便の場合は単なる少量化なのでテレプレゼンス。そこがうまくいかなかったというだけ。

村川グループ
・発表者:ショウ、村川
・課題本:『ネット社会と民主主義』(辻大介、2021)
・発表範囲:第1章 ネットの影響は強力なのか、第2章 ネットは政治的意見への接触を偏狭にするのか

[概要]
第1章
社会心理学を中心とした先行研究では、インターネットを含む現代的なメディア環境が、個人の先有傾向を強化し、その結果として世論の分極化が起きると考えたが、ミクロ・マクロリンクの問題もある。
第2章
インターネットで政治的意見を集めると偏ってしまうのではないかということに対しさまざまな観点から検証していく。
〈質疑応答〉
質問1:最初の発表の、自分の社会的地位に対する覚醒性とは何か。自分の地位が高まったという解釈でよいのか。
回答:近代化において、社会階層帰属意識という、階層化された伝統的共同体から、個人主義というものにシフトする中で、今までの人々はイデオロギーに拘束することなく、意識し始めた。その結果に、好意的。近代化という文脈が隠れている。
質問2:最後のところで、選択仮説②と④のことであるか。
回答:そうである。
質問3:接触仮説と回避仮説はまとめられて①〜④であるのか。
回答:政治態度について支持的か批判的か、意見接触度の上下という計4パターンである。

2 反省
活発な議論がなされていてよかった。

作成:山﨑
編集:三浦