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月刊世界(岩波書店/発行)2005年8月号pp.33-36
江下雅之

住基ネットの概要と是非をめぐる訴訟

 住民基本台帳ネットワークシステム(通称「住基ネット」)とは、文字どおり、各市町村が居住関係を公的に証明する住民基本台帳をネットワークシステムで運営する仕組みだ。管理されるデータは、個人の氏名、生年月日、性別、現住所の四情報および各個人に割り当てられた固有の11桁コード(住民票コード)である。データベース本体は市町村で管理・運営されるが、ネットワークシステムは市町村/都道府県/全国の三つの階層構造のもとで運用されるため、全国どこからでも認証作業が可能である。システムが管理するデータは、行政機関による本人確認に使用され、その際、本人確認情報は市町村から都道府県、都道府県から指定情報処理機関(全国レベルのシステムを運営)に通知され、指定情報処理機関から行政機関に提供される仕組みだ。提供される情報は本人確認情報に限定され、情報の提供先および利用目的は住民基本台帳法で規定されている。
 住基ネットは日本に居住する人々の個人情報を管理する巨大なシステムである。それゆえプライバシー問題が運用以前から論議されているが、現実には、社会保険庁の基礎年金番号、国家公安委員会の運転免許証、外務省のパスポートなど、多くの行政機関が膨大な個人情報を管理している。また、国税庁はすでに群を抜いた個人情報を保有しているほか、財務省は納税者番号制度の導入を検討している。住基ネットがあろうがなかろうが、国民の個人情報は行政機関が広汎に管理しているのである。とはいえ、網羅する範囲が日本国内の全居住者に及ぶという点で、住基ネットはかつてない巨大な個人情報管理システムと見なしてよかろう。
 住基ネットによってプライバシーが侵害されたとする訴訟が全国十ヶ所以上の地方裁判所で争われている。そして2005年5月30日、金沢地方裁判所において、住基ネット離脱を求める原告の情報を住基ネットで利用することは、憲法13条にに反するとの判決が下りた。他方、その翌日に名古屋地裁では、ほぼ正反対の判決が下されている。もとよりこれらは地裁レベルの判断であり、住基ネットの運用に関する憲法判断は、最高裁まで争われることになるだろう。とはいえ、多くの法学者が違憲性を指摘し、地裁レベルとはいえ違憲判決が出たということは、留意しておく必要がある。憲法とは、国民と国家が交わす契約であるのだから、かりに最高裁で最終的に合憲判断がなされようと、住基ネットの運用は契約違反スレスレの行為なのだと認識すべきである。

おもな問題提起

 住基ネットに対して提起されている問題点は、おおむね次の四点が代表的だ。
 まず第一に、国民監視の基幹システムになるという危惧である。プライバシーの侵害という批判は、この危惧に立脚するものだ。過去数年間、通信傍受法の施行や監視カメラの増大など、警察を中心とした国家による国民監視の動きが急展開している。これらのシステムと住基ネットとでは運営母体は異なるが、多くの国民は国家による個人情報管理の強化は共通する文脈に属するものとして警戒している。
 第二に、住基ネットを運営する公務員のモラルへの不信があげられる。実際、政治家や有名タレントの年金未納問題が注目されたとき、社会保険庁職員による情報の「覗き見」が問題になった。イギリスにおける警察の監視カメラシステムの運営でも、捜査員による「覗き見」が問題視されており、この種の不信は根拠なき危惧とはいえない。
 第三に、不正侵入による情報の流出や改竄などセキュリティに関する批判がある。住基ネットではないが、クレジットカード情報や顧客情報の流出が繰り返し生じている。データ流出はシステムを操作する職員の技術力やモラルにも関わる問題なので、セキュリティに関する危惧を完全に払拭するのは不可能だろう。また、住基ネットの末端ユーザが地方公共団体であり、市町村によって情報技術への対応力に差がある以上、セキュリティ水準の弱いところが「穴」となる危険性は否定できない。
 第四の問題点として、住基ネットの構築および運営に関わるコストが業務の省力化や住民サービス向上に見合わないとする費用対効果への疑問がある。この点に関しては、いくつかの試算がおこなわれているが、現時点では投資に見合った効果はあがっていないと判断せざるをえない。
 四つの主要な論点のなかで、私は費用対効果を特に注目する。なぜなら、他の三つの論点、すなわち監視、モラル、セキュリティなどの問題は、高度な情報システムを運営する以上、ある程度はリスクを覚悟しておかねばならないからだ。そうである以上、予想されるリスクに見合うだけの効果がえられるのか否かを基準に考えざるをえないのである。先に住基ネットの運用は、たとえ合憲とされたところで契約違反スレスレの行為であると指摘した。投資に見合う利点がないのなら、そうした綱渡りのようなリスクテイクは意味がない。逆に、利点が明確ならば、場合によっては契約内容を変更して(すなわち改憲)でも、とことん利点を追求するという選択肢もありうるはずである。

相矛盾する利点と制約

 ところが、費用対効果という視点から住基ネットの枠組みを眺めてみると、根本的な矛盾を内包していると判断せざるをえない。
 住基ネットに登録されているデータそれ自体は、とりたてて個人を危険にさらすものではない。たとえば「小泉純一郎」という個人名と、それに対応する住民票コード番号が流出したところで、小泉某と数字の組合せがわかるだけである。しかし、小泉某の職業、現住所、年収、家族構成、クレジットカード番号などの情報が関連づけられ(いわゆるアンカリング)、そのうえでデータが流出しようものなら、小泉某の家族が営利誘拐の標的にさらされるかもしれないし、本人がカード詐欺にあうかもしれない。また、警察庁や国税庁、社会保険庁、外務省などの行政機関が、住民票コードを用いてそれぞれが保有する個人情報をアンカリングすれば、国民の知らぬところでさまざまな「ブラックリスト」が容易に作成できる。それはあらたな差別を生み出す社会的な仕分けにつながるだろう。情報の関連づけが大きな問題を発生させるからこそ、個人には、自己の情報がいかなる関連づけをされるかをコントロールする権利がある、と考えられるのである。
 他方、情報の効果的な利用には、関連づけが不可欠である。そもそもネットワークシステムとは、多様な情報を迅速かつ多様な関連づけを実現するための道具である。さらに、充実した個人向けサービスを実現するには、プライバシーの領域に踏み込むことが不可避である。これは企業の顧客サービスを考えれば簡単に理解できることだ。気の利いたセールスマンは、顧客のプライベートな情報に精通しているものである。
 住基ネットの場合、個人情報を保護すべく、情報の範囲や提供先、利用目的に制約を課している。そして住民基本台帳法に示されている事例は、恩給や共済年金、児童扶養手当の支給、無線局の許可や気象予報士の登録などをはじめ、国民生活の根幹をなす事柄とはいえないものがほとんどだ。これでは政府がいくら住基ネットの利点をうったえようと、国民に実感できるはずがない。住基ネットのサブシステムに位置づけられる住民基本台帳カード(住基カード)の発行枚数が平成17年3月末時点でわずか54万枚強(対住基人口比で0.4パーセント)という低水準にとどまっているのは、当然すぎる結果である。
 個人情報保護に配慮すれば、費用対効果の大きなシステムなどできようがない。ところが、たいした利点を主張できない現行の住基ネットに対してすら、個人情報保護を危惧する訴訟が相次いでいる。こうしたシステムに、「契約違反スレスレ」の綱渡りをしてまで維持すべき価値があるとは私には考えられない。

目的が明確なシステムに向けた仕切直し

 住基ネットの根本的な問題は、システムの目的が抽象的にすぎる点にあるのではないか。むろん、住基ネットは本人確認のため「だけ」のシステムであるから、目的といっても、せいぜい「電子政府・電子自治体の基盤」程度のことしかいえまい。ところが、基盤という目的が与える印象は、住基ネットが行政機関の管理する個人情報をむすびつける土台になるのではないか、ということだ。だから、国民は住基ネットのありかたを警戒せずにはいられないし、その警戒ゆえに、住基ネットは基盤としての機能を果たせない、という自己矛盾を生じさせるのである。そもそも電子政府・電子自治体といっても、それは手段であって目的ではない。ITを用いぬ業務であろうと、低コストで安全な仕組みが実現できるなら、そのほうが国民にとって利点は大きいはずである。
 ネットワークシステムを構築するのであれば、具体的で明確な目的を志向すべきである。システム化が最も必要な業務として、たとえば年金および所得税の徴収がある。少子高齢化社会が急展開するいま、年金と所得税を公正かつ効率的に徴収するためのネットワークシステム基盤の整備が急務という論理は、けっしてこじつけではないはずだ。実際、住民票コードを年金業務に利用すべしという意見は出ている。しかし、住基ネットの利用範囲を拡大させることに私は反対だ。それでは歯止めが利かなくなってしまう。
 私はなにも、住基ネットにかわる納税者番号管理システムのような仕組みをつくれと主張したいのではない。ここで年金と所得税をとりあげたのは、個人情報の取り扱いを考えるうえでのひとつの例として、である。要は、年金や所得税の効率的徴収をいった具体的な目的を志向することによってはじめて、システム化の利点と問題点との比較検討が可能になり、その結果として個人情報保護と個人情報利用との線引きが可能になる、と主張したいのだ。そうした論議のなかで、場合によっては社会保険庁と国税庁の統合といった組織の見直しも提起されていい。
 我々が論議すべきネットワークシステムは、個人情報の関連づけが制御不能になりかねない「どのような認証業務にも用いることができる基盤システム」ではなく、特定の業務に特化して効率的な処理を実現できるシステムである。住基ネット構築に要した数百億円の投資は無駄になるかもしれないが、今後発生する膨大な管理コストを考えれば、仕切直しをちゅうちょすべきではない。
(おわり)


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