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書評『「ケータイ・ネット」を駆使する子ども、不安な大人
(渋井哲也/著、長崎出版、2006年)
図書新聞(図書新聞社)2006年2月25日掲載
江下雅之

ケータイ・ネット世代の日常的ネットワーク・ライフを直視する
良識的なオトナたちの安直なネット悪玉論に対する誠実な問題提起

 あらゆる犯罪は不幸な出来事ではあるが、子どもが被害に遭う殺人事件ほど、社会にとって辛く悲しいことはない。そして、加害者までもが子どもであるような場合、我々はただひたすら衝撃を受け、とまどい、やがて恐怖にかられる。とりわけ子どもを持つ親にとって、それは二重の恐怖となる。自分の子どもが犠牲者になるかもしれない恐怖、そして我が子が加害者となるかもしれない恐怖だ。二重の恐怖に駆られた親たちや社会は、無惨な事件を防止する即効性のある対策と、事件に至らしめた要因に関するわかりやすい説明をせっかちに求める。こうした心理的な構図のもと、ここ数年、さまざまな事件の主たる要因として取り上げられ、対策の標的とされてきているのが、インターネットや携帯電話というコミュニケーション道具である。
 本書の土台は、安直なネット悪玉論に対する問題提起である。インターネットやケータイは道具である、という認識をかかげたうえで、具体的な事例を注意深く紹介している。言及されている事例には、社会に大きな衝撃を与えたものが多い。まさしくネット悪玉論の文脈で取り上げられたものばかりだ。しかし、本書で著者が一貫して取っているスタンスは、「道具をうまく使いこなすためには、コミュニケーションの特性を理解し、過剰に期待せず、少なからずの警戒心は必要だ。あくまでもネットは道具にすぎない」(本書112.p)という主張に集約される。自動車とて、うまく使いこなすことができなければ凶器であるが、単純な自動車悪玉論が意味をなさないのとおなじく、安直なケータイ・ネット悪玉論も短絡にすぎない。衝撃的な事件とケータイ・ネットとの関わりが認められる場合であっても、いかなる特性が事件の経緯に結びついているのかを理解すべきなのだ。しかし、本書で繰り返し指摘されているように、世間は手っ取り早い説明を求め、対症療法的な対応策を志向してしまうのである。
 本書の第一章で取り上げられた事例、二〇〇四年六月に発生した長崎県佐世保市の小六女児殺害事件は、まさしく子どもによる子どもの殺人事件であり、インターネット上の日記や電子掲示板での書き込みをめぐるトラブルが殺意を抱くに至らしめた、と論じられたものだ。しかし、コミュニケーションのすれ違いにもとづく感情的なしこりが殺意にまで過熱するという事例は、絶対数は少ないとはいえ、手紙でのやりとりでも電話での会話でも十分に起きうることである。ましてや、この事件では加害少女と被害者とは同級生であり、日常的に行動をともにしていた。ケータイ・ネットでとかく非難の対象となる匿名性の問題とは無縁だったのである。
 にもかかわらず、マスコミ報道も含めて世の中の多くの意見はインターネットを悪玉に仕立て上げた。それが意味することは、大人たちにとって、ネット悪玉論が非常にわかりやすく納得しやすい説明である、ということである。たしかに、インターネットやケータイのような新しい技術的手段が犯罪に対して完全に中立であるとはいわない。インターネットなどの普及によって、ある種の犯罪的行為が実現しやすくなったことは事実として認めるべきだろう。自殺志願者どうしがいわゆる自殺系サイトで知り合って集団心中をする、あるいは自殺志願者を装って殺人を実行するといった事件は、インターネットが加害者と被害者の接点をもたらしたと考えるのが自然だろう。他方、本書の第二章で言及されているように、子ども時代からケータイ・ネットに接してきた世代にとって、それは同時に日常的なコミュニケーション空間でもあるのだ。
 そもそもケータイ・ネットに対する認識は、世代間のギャップが大きい。おおざっぱに分類すれば、これらの道具とは無縁にライフスタイルを確立した昭和二〇年代生まれまでの世代、成人になってから仕事の道具として利用するようになった昭和三〇年代・四〇年代生まれの世代、そして子ども時代から日常的な道具として慣れ親しんだ昭和五〇年代生まれ以降の世代に分けることができ、それぞれの世代によってケータイ・ネットに対する認識は異なる。当然ながら、上の世代に行くほど若者たちの日常的なケータイ・ネットのコミュニケーション活動は理解不能でいかがわしい行為に映るだろう。
 こうしたギャップこそが、ケータイ・ネットを悪玉に仕立て上げる発想の根幹にある。上の世代にとって、自分たちが青年期にケータイ・ネットを日常的に利用した経験を持たぬがゆえに、ケータイ・ネット世代に対し、みずからの経験にもとづく指導なり助言なりを与えることができない。そもそもケータイ・ネットをさして利用せずにライフスタイルを確立している以上、それを有害無益と断じてしまうこともあろう。他方、子どもたちはケータイ・ネットを日常的に扱う習慣を持ってはいても、人間関係のさまざまな軋轢に対処するだけの人生経験を持たない。現代のケータイ・ネットにおける最大の問題点は、「大人の知恵」が確立されていない点にあるのだ。だからこそ、ケータイ・ネットになじみの薄い世代ほど、そこでは日常的に何が繰り広げられ、どのような展開が危険な事態につながるのかを知る必要がある。本書の第三章・第四章では、衝撃的な事件だけではなく、ケータイ・ネットでの日常的なコミュニケーション行動が丁寧に述べられている。
 最後に著者は、ネットの規制をめぐる公的な対応のいくつかを批判的に取り上げている。ケータイ・ネットの日常を直視せず、理解不能な事件への恐怖に駆られてわかりやすい答えを求める人たちは、こうした規制をむしろ歓迎するだろう。それがいかに危険なことであり、かつ事態の本質から逸れているかということは、本書の豊富な事例を丹念に読めば、明確に理解できるはずである。


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