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「国会月報」1994年4月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

ネットワーク社会はどのように進むか?(3)

ネットワーク型社会の威力はどういう場面で発揮されるのか。一般にネットワーク構造の社会は「好ましい」ものと考えられているように思われるが、はたしてその魅力はどのような点にあるのかを検討してみた。その一方で、ネットワーク構造であるがゆえの死角について考察してみた。

ネットワーク化の威力

 ネットワーク構造をとる社会の魅力は、構成するメンバーの自発性にあるといっていいだろう。各人が自分の興味や関心事項、あるいは得意分野を持つ。それを求心力にして参加し、メンバーどうしの相互関係が結ばれる。そこには、いわゆる「しがらみ」を離れた自由な交流が実現されることも多いだろう。

 フランス社会では、知り合い同士のホーム・パーティーが頻繁におこなわれる。これはネットワーク構成メンバーの集会だ。それぞれのメンバーは、自分の興味に応じた会話や議論を楽しむ。このような場は、結婚相手を見つけるきっかけにもなる。研究や、あるいは就職の際のコネを芋蔓式にたどるきっかけともなるのだ。日本社会の場合、このような機能は会社がそのまま果たしている場合が多い。これらの例は、前回述べた「利益」についての具体的な例だ。

 ネットワークは「個」のエネルギーが結集されたとき、大きな威力を発揮する。その例は、流通業界のフランチャイズ・チェーンやボランタリー・チェーンなどにみいだされる。

 小規模店舗と大資本の大型店舗とでは、それぞれに相反する長所・短所がある。ただし、モータリゼーション以降の消費行動では、おおむね大型店舗のほうが、消費者によりアピールする長所をもっていたといえるだろう。品揃え、価格などの点でだ。小規模店舗に比べて相対的に立地が悪い点も、自動車が移動手段となったことで、ハンディではなくなった。

 ひとつひとつの商店では、大型店舗なみの品揃えはとうてい不可能た。在庫の問題があるし、マーケティング企画力でも大きな差がある。この不可能事を可能にしたのが、チェーン展開というネットワークだ。この分野では、医薬品チェーンのファルマの例があまりにも有名だ。コンビニエンス・ストアの例も、ほぼ同じ視点に基づいた経営戦略だといえよう。

 ファルマのたどった方法論を、ここでは説明しない。詳しい内容は、すでに多くの出版物で紹介されている。ここで実現されたことは、ひとつひとつの小さな店舗が、ネットワークを通じてあたかも巨大な組織であるかのように活動ができた点だ。むろん、小さいがゆえの小回りのよさは、そのまま生かされている。ちっぽけな「個」でありながら、集合体としての威力を発揮できる——個人がスーパーマンであるかのような行動を実現できる——、これがネットワーク構造の特徴であり威力だ。

ネットワークの破壊者

 ネットワーク構造のシステムには、参加資格という条件がある。また、構造のポイントは求心力であり、その格が個人による利益のギブ・アンド・テイクだ。このようなシステムでは、フリー・ライダー(ただ乗り)の存在が全体の構造をくずしかねない。構造そのものが相互依存である以上、ただ乗りメンバーは利益の配分システムを歪めるだけでなく、システムの動機づけをも損なってしまうのだ。別な言い方をすれば、ネットワークの中では「積極さ」を常に求められているということになる。

 いわゆる「井戸端会議」的なネットワークも存在する。コミュニケーション型のネットワーク社会だ。このような状況では、当然ながらメンバー間のあつれきは最も避けるべき事態とされるだろう。ところが、利益の授受ともなれば、人間関係はある程度の緊張感がともあうはずだ。無条件な「和気あいあい」は、この緊張を台無しにしてしまう危険性があるのではないか。

 そもそもひとが和気あいあいとできる人数は、案外と限られている。コミュニケーション型だけでは、ネットワークの規模が限定されてしまう可能性もある。一方、上下関係に対する意識も、ネットワーク構造ではマイナスに作用する。ここでは個人個人が対等の立場であることを前提に、このシステムは成立しているのだ。

ネットワークのわずらわしさ

 ところで、ネットワーク社会は、無条件に「好ましい」構造とかんがえられていないか。その対極に位置するタテ型社会——これは日本的企業社会を意識したものだが——は、特殊なもの、機能的に劣ったシステムだとかんがえられていないか。ひとそれぞれの価値観が異なる以上、絶対的に優れた社会構造は存在しないとかんがえるのが自然だろう。ある条件下である構造がより効率的だ、という議論しかできないはずだ。

 集合体としての威力を発揮させるためには、メンバーの性格はある程度異質である方が好ましい。その分、相互に補いあえる部分がでてくるからだ。そのためには、異質をよしと認めあう姿勢が求められる。実のところ、この点がネットワーク構造の長所でもあり短所なのではないだろうか。

 ことばだけでいえば、「異質な人格を尊重する」ことは無条件に好ましいことといえるだろう。しかし、実際の社会システムとしてみた場合、はたしてそうまでいえるかどうか。例を挙げれば、契約の煩雑さ、訴訟の頻出などがある。それぞれの存在が異質であればあるほど、ものごとを進めるにあたってのルールに明確な基準が求められる。また、その解釈や利害の対立をめぐり、当然争いごとも増えるだろう。「異質な人格の尊重」はかなりエネルギーのいる行為なのだ。

 その点、かなりの同質性に支えられた日本的なタテ社会は、ことシステムへの直接の参加という点では、気楽でもあり、わずらわしさも少ないとさえいえるだろう。フランスのように、個人個人は全く別個だとかんがえる社会では、確かに多くの面で柔軟性、寛容性がある。その反面、契約の煩雑さ、それにともなう軋轢は、「疲れる」ものだといえよう。

 次回では、このようなネットワーク社会の特徴や問題点を考察してみたい。


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