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ネットワーク・バトル・レポート(1)
「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1994年7月号掲載
江下雅之

無責任なオーディエンス

バトルのスペクタクル性

 電子会議室でバトルがはじまると、そのフォーラムには入会希望者が殺到する。『裏パソコン通信の本』(三才ブックス)などは、「アクセスを伸ばす究極の要因は、フォーラム内でトラブルが起きること」とまで指摘している。
 最近、パソコン通信を舞台にした民事訴訟が相次いだ。ニフティでおこったと思ったら、こんどはPC-VANだ。
 ニフティでの訴訟は、主として現代思想フォーラムで交わされた一連の「バトル」が原因だという。
 この訴訟のうごき自体、私は提訴の少し前から知っていた。しかし、現代思想フォーラムでの関連メッセージは、事件を知ってから落としてみた。
 訴訟がおおやけになってから、前述のパターン通り、現代思想フォーラムでは野次馬の入会が相次いだらしい。また、メッセージを読んでみると、訴訟でこのフォーラムに興味をいだき、発言者として加わったひとも少なくないようだ。バトルが「論客」を招くのは、なにも現代思想フォーラムに限ったことではない。
 あるひとにいわせると、今回のニフティでの訴訟は、「罵倒合戦のなれの果て」なのだそうだ。たしかに激しい言葉の応酬があった。削除された発言は、とうぜんながら、もっと過激だっただろう。
 正直なところ、関連ログを読み始めたころは、かなり「気色悪い」思いがあった。ところが、だんだんとヒロイック・ファンタジーを読むような気分になった。
 逆境の主人公がいて、それをいじめるライバルがいて——図式は単純きわまりないが、私はこういうストーリーが大好きで、読み出すと止まらなくなってしまう。
 たとえば、週刊ビッグコミック・スピリッツ連載の「HAPPY!」なんかが、いまではお気に入りだ。
 毎週、ライバルの意地悪をこころから憎み、それをなんとか切り抜ける主人公に思い入れる。腹が立ったはたったで、意地悪の結末が気になる。次回が待ち遠しい。
 そして、主人公が切り抜けたあとは、次なる意地悪を期待してしまう。
 現代思想フォーラムのバトルを読むときの気分は、この期待と苛立ちの混じった心境となんら変わりがないのだ。
 バトラーたちのメッセージは、どれもかなり読みごたえがある。主張に同意できるできないは別にして、とにかく「読ませる」発言が多いと思う。
 とげとげしい表現も多い。正直、ついていけないな、と思える激論もすくなくない。
 が、あっさりと読み流せるような「ゴミ」メッセージは少ない。
 それぞれの書き手は、相当なエネルギーを込めてメッセージを送っているのだろう。その迫力に、ついつい惹かれてしまうのだ。
 バトルのメッセージを読んでいけば、いくつかの陣営らしきものが見えてくる。そして、自分の考えに近い陣営には、つい、思い入れがわいてくる。当然、その論敵は意地の悪いライバルだ。
 「自分の陣営」が見事な論陣を張る。それを読んで、私は喝采をあげる。
 翌日、「敵」が切り返してくる。
 当事者でもないのに腹が立つ。
 さらに、このフォーラムでのバトルは、単純な対立構造ではない。どこからどんなタマが飛んでくるかわからない。何重にも交錯したストーリーがあるかのようだ。

主役が去って……

 私もバトルの当事者になったことがある。
 これはなかなか胃に厳しい。かなり疲れる作業だ。時間もとられる。
 現代思想フォーラムのメッセージを読む限り、おそらく多くの参加者も、胃が痛くなっていることだろう。「わからずや」を相手にして、日々、はぎしりしていることだろう。
 が、そうほどのメッセージだからこそ、「のほほん会議室」にはない、真剣勝負に似た緊迫感を覚えるのだ。
 「似た」などというのは、バトラーたちに失礼かもしれない。彼らは疑いなく、真剣に論戦をたたかわせているのだから。そして、読みごたえのある議論の続出を見ると、彼らがただ者ではないという気になる。
 とあるSF作家は、訴訟にいたる論戦をじかに「観戦」したそうだ。そして、実在のキャラクターが演じるこの壮絶な「物語」に接して、小説は通信に敗北したとまで思った。
 計算された小説世界とはまったく異質の不確実さがある。そもそもこの「物語」は、きちんとした最終回があるのかどうかさえもわからないのだ。
 毎日、リアルタイムで語られるこの物語は、興奮を加速度的に高める効果がある。おおげさないいかたをすれば、「闘いの歴史をともに生きる」という高揚感があるのだ。
 が、ふと「宴のあと」を考えてしまった。
 これまでの経験だと、決着のついたバトルの記録は、読んでみても不毛な議論としか感じないものが多いのだ。この高揚感は、バトルをともにした者だけが味わえる気分なのかもしれない。
 さて、いままでにない大規模な「物語」に発展した現代思想フォーラムのバトル、はたしてあとから読んでも興奮を感じるだけの記録を残してくれるだろうか? 私はひとりのオーディエンスとして、さらに読者として、ついこんな期待もしてしまうのだ。
 しかし、訴訟によって主役たちは舞台から遠ざかってしまった。「物語」は相変わらず続いているものの、なにか千両役者を欠いたような気分がなくもない。
 野次馬のひとりとしては、ぜひとも最終回まできっちりと物語を演じてほしかった。そして、願わくば、歴史に残るような作品に仕上げてほしかった。


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