問い合わせ先

ご意見・ご感想あるいはご質問がある場合は、本サイトの「Centre」コーナーにてコメントとしてお寄せください(バナーの「centre」タブをクリック)。コメントの公開を希望されない方は、その旨、コメント内のわかりやすい場所に明記しておいてください。

掲載原稿について
ここに掲載した原稿は、すべて雑誌・ムック他に公表したものです。原稿の著作権は江下雅之が保有します。無断転載は固くお断りいたします。
なお、当サイトに公開しているテキストは、すべて校正作業が入る以前のものをベースにしております。したがいまして、実際に雑誌やムックなどに掲載された文面とは、一部異なる箇所があります。

サイト内検索


カテゴリー(archives)


「国会月報」1994年9月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

情報民主主義への期待と課題(2)

「情報民主主義」の基本は、発言権の適切な行使である。これは、不特定多数に対する、自己表現能力が要求されることだ。日本は識字率の最もすぐれた国といわれながら、この自己表現に関しては、口語でも文語でも、教育制度が充分に対応していないのではないか。

《議論》の歴史的背景

 日本人の議論べたは、いまでは当たり前のように指摘されている。それが事実かどうかは、きちんと検証する必要があるだろう。少なくとも現代社会の運営は、まったくの議論なしには運営できないはずだ。「議論べた」との指摘には、ある程度のステレオ・タイプがあるかもしれない。

 とはいえ、歴史的に見て、ヨーロッパ社会が「議論の技術」を発達させてきたことも事実だ。とくにギリシャ・ローマ時代に、いわゆる「レトリック」が飛躍的に進歩した。帝政ローマ社会は西洋史上で最初の《コミュニケーション社会》とみなされている。ギリシャの「ソフィスト」時代から発達した弁論術が、この時代、さらに深められたようだ。もともと「コミュニケーション」という意味には、「説得」というニュアンスが強い。単に情報を伝えるだけでなく、そこに相手を心服させる強い意志が込められているのだ。

 日本人の議論べたを主張する人は、欧米の学校教育で重視されているディベート——討論の訓練が行われていないことを指摘する。確かに、日本の学校では、教育というと教師が生徒に知識を伝えるという面が重視されているようだ。単純な良し悪しの比較はできないが、このような発想は自己啓発を重視するヨーロッパの発想とは異なると考えられる。実際、フランスの学校では、高校でも大学でも討論が頻繁に行われる。討論がないと授業そのものが成立しないことすらある。それに比べれば、確かに日本の学校は、初等から高等教育に至るまで、あまり討論をする時間がなさそうだ。

 しかし、それ以上に欠けている視点は、より一般的な「自己表現」の訓練であろう。ディベートにしても、つまるところ「自己表現」の訓練である。したがって、自己表現そのものを重視するような発想の転換がなされない限り、たとえ学校教育に討論を加えたとしても、効果はあまり期待できないのではないだろうか。

自己表現の訓練不足

 先日、留学生相手に日本語を教えている大学講師から、口述表現の参考文献に関する問い合わせがあった。なんでも、日本人学生にも口述コミュニケーション技術を教えることになったのだそうだ。ところが、いろいろと文献を探してみても、これといったテキストが見つからなかったそうだ。

 たしかに《ビジネス・プレゼンテーション》に関する文献はかなり見かけるようになった。ただし、これはアメリカ流ビジネス・スクールの影響が強いため、どちらかといえば仕事での説明や交渉の技術を解説したものが多い。それ以外のものでは、ビジネス・マナーに関するものが中心だ。いずれにしても、この状況だけを見れば、自己表現技術とは、あくまでも「仕事上必要なもの」であり、本人または企業が投資すべき対象である、と考えられている点だ。

 このような認識は、少なくともフランスでは考えられない。自己表現技術とは、社会的にも必要な要素、それこそ「読み書きソロバン」と同等の位置づけがなされている。大きな書店に行けば、口述コミュニケーション技術だけでひとつのコーナーになっている。このような認識があるからこそ、教育の場で自己表現技術が訓練されるのだ。

 日本の大学教養課程で、「作文」の時間があるところはまれだろう。論文の書き方を授業で指導しているところも、決して多くはなさそうだ。一見当たり前のことのようだが、フランスやアメリカの大学では、論述コミュニケーションの時間がきちんと取られている場合が多い。口述についても前述ディベートの時間が設けられている。口述でも筆記でも、コミュニケーションの時間が日本の教育制度では軽視されているのだ。

不特定多数への自己表現

 では、欧米の大学などでは、コミュニケーションの時間に何を教えるのか? 学校によっては履歴書の書き方から面接での対応方法など、かなり細かな状況に応じた指導も行っている。演劇の専門家を招いて、「演説」の指導をおこなうエリート学校もある。声の抑揚だけでなく、間の取り方、視線の動かし方、腕の位置まで指導するのだ。

 しかし、コミュニケーション教育の基本は、「不特定多数に向かって自分を表現する技術の取得」といっていいだろう。要は内容だ、小手先の技術など本質的な問題ではない——と、おっしゃる方に考えて頂きたい。対面コミュニケーションでことばが伝える情報は、せいぜい全体の一割程度に過ぎないという。九割は仕草をはじめとする非言語的な情報が伝えるのだ。つまり、このような表現技術を軽視するということは、文字を「書く」、あるいはことばを「話す」という技術を軽視する以上の危険があることになる。そもそも、「ことば」にしても、きちんとした訓練なしには、正確に書いたり話したりはできないはずだ。そのことは、多くの方がスピーチを頼まれたとき、あるいは公の文章を書くとき痛感するのではないか。

 日本社会では、仲間うち以外に情報を発信する機会が、おどろくほど少ないことがわかるだろう。その一方、最近はパソコン通信のように、不特定多数に向けた情報を発信できる場が広がりつつある。ところが、ここではことばのやりとりを巡るトラブルが後を絶たない。いろいろな要因がそこにはあるのだろうが、不特定多数の反応を意識しない発言態度というものが、大きな原因の一つであるこは事実だろう。むろん、アメリカのネットワーク通信でもこの種のトラブル(flaming)はある。それでも、日本よりは落ちついた議論になることが多いという。

 一般に日本人の識字率は世界最高水準だという。しかし、自己表現力を加味した場合、はたしてどのような評価になるだろうか。


Copyright (C) Masayuki ESHITA

最近の登録原稿(RSS)

掲載月別アーカイブス