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ネットワーク・バトル・レポート(4)
「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1994年10月号掲載
江下雅之

気弱で無口なひとほどが暴言を吐くのか?

ネットワーク上で「変貌」するひとはいる

 本誌連載のリレーエッセイ第一回(八月号)で、作家の水城雄さんは「ものすごい罵詈雜言を書く人が、オフラインで実際に会ってみると、気弱で無口な男だったという例は少なくない」と指摘している。
 これは、多くのひとが現実に抱く印象でもあろう。
 たしかに、電子会議室の発言と書くひととの性格は、まだ統計的な調査がなされたわけではない。会議室でインパクトの強い発言をするひとは、オフの席でも当然注目されるであろうから、「無口で気弱」という印象は増幅されるのかもしれない。
 実際の性格と発言傾向とが、むしろ正の相関関係にある可能性も否定できない。オフで会ってみて、想像通りのひと、発言そのままのひとというのも、決して珍しくはないからだ。
 しかしながら、ネットワーク上で「変貌」するひとが存在することは、これは事実として捉えていいだろう。この点、車の運転と共通する心理があるように思われるのだ。 「ハンドルを握ると性格がかわる」「車の運転をすると、本当の性格があらわれる」といったことが、運転を話題にするときによくいわれる。これをそのまま「発言をすると性格がかわる」「発言をすると、本当の性格があらわれる」というように置き換えれば、ネットワークでの俗説そのものだ。
 運転の傾向と性格については、これまでにさまざまな科学的分析がなされている。それはけっして、「気弱な人間ほど乱暴な運転をする」というような、単純な結論ではないはずだ。この点で、先の運転に関する俗説にしても、科学的に証明された定理というよりも、そのような例が存在するという指摘にすぎない。
 ならば、なぜ一部とはいえ「無口で気弱」なひとが、罵詈雜言に走ることがあるのだろうか? なぜ一部とはいえ日頃おとなしいひとが、暴走に向かうことがあるのだろうか?

一見増幅される「能力」がポイントに

 車でもネットワークでも、共通する状況がひとつある。
 どちらとも、決して生身の人間が外界にさらされていないこと、そして、人間の身体的能力以上のことを行える点だ。
 車であれば、雨が降ろうが風が吹こうが、すべて——オープンカーのような例を除けば——車のボディが引き受けてくれる。そして、足先のちょっとした操作だけで、人間がみずからひねり出せる時速36キロという限界速度を突破できる。
 ネットワークにも似たような状況がある。
 どのような暴言を吐いたところで、自分の体に直接の危害が及ぶ「反撃」を受けることがない。なにを書いても、「殴られることはない」のだ。
 ネットワークでは、誰でも比較的簡単に目立つことができる。発言しさえすればいいのだ。別にひとより体が大きくなくても、声が大きくなくても、等しく平等に発言できる機会があるのだ。しかも、その発言は数十人、数百人という規模のひとに伝わる。
 日常生活で、これはなかなか難しいことだ。
 コミュニケーションを維持するためには、さまざまな能力が必要だ。また、外見上の特徴など、いわゆるステレオタイプによってコミュニケーションのしやすさ、しずらさが存在するのも確かだ。実際、ネットワークの利点として、社会的な「偏見」から開放された自由なコミュニケーションの実現があった。
 ある集団の中で交流を進めていくためには、まわりを楽しませるだけの話芸なりサービス精神も必要だろう。実社会でそれを実践するためには、多くのコミュニケーション経験が求められるだろう。接するひとによって、興味も関心も異なるからだ。
 ネットワーク通信は、グループ形成からコミュニケーションの形態にいたるまで、これまでとはまったく異なるコミュニケーションを実現している。
 距離の制約がなくなったということは、これまで以上に、共通の趣味や関心を求心力にした交流が活性化される。これは、限られた話題なりテーマの中だけで、対面では機会が限定されていたコミュニケーション頻度が増大することを意味する。さらにいい換えれば、実社会の場面ではコミュニケーション能力不十分だったものが、ネットワークに参加することで、能力以上のコミュニケーションが可能になるということができるだろう。
 無口で気弱で、そして罵詈雜言を書くひとというのは、潜在的にはコミュニケーションを欲していながら、日常生活でのさまざまな要因から、自分の殻に閉じこもっていたタイプなのだろう。そう考えると、この種のバトラーがネットワーク上にまき散らす罵詈雜言も、「私に注目してほしい」「私に構ってほしい」「私の才能を認めてほしい」といった、悲痛な叫びにも聞こえてきてしまうのだ。
 絶望的なまでに泥沼化したバトルのなかには、お互いにこのような叫びあいをしている例も多いのではないだろうか。


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