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「国会月報」1995年7月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

メディアと世論(2)

現状認識とステレオタイプ

 先日、知人とのあいだでこういう冗談を交わした。
「学生は本当に勉強しないな」
「あまり真面目に勉強されても困る。変な宗教にのめり込まれでもしたら、かえってやっかいだ」
「遊んでいてくれた方が罪は少ないか」

 この原稿を執筆した時点で、東京地下鉄サリン事件の事情聴取が山場を迎えているところだ。と同時に、犯行の容疑をかけられた宗教団体に対する報道が、ピークを迎えつつあるところだ。週刊誌などはその異常性を追求する特集号をさかんに組んでいる。

 個人の力では、世の中のごく一部としか直接の接触ができない。そのため、メディアの伝える単純化された型にはまったメッセージ——ステレオタイプに基づいて、われわれは現実に生じていることを判断しようとする。今回の報道ラッシュにおいても、さまざまなステレオタイプが植え付けられていった。「新興宗教」「まじめなエリート学生」「オカルト的関心」というものに対する偏見が、かつてなく高まったのではないか。

 もともと新興宗教というものは、既成の価値観に対する疑問が一つの出発点になっている。その意味からすれば、本来が反社会的な性質を含んでいるはずなのだ。実際、キリスト教や仏教もそもそもは新興宗教であり、当時の体制であったローマ帝国やインド・バラモン階層は、徹底的な排除を試みたはずだ。

 逸脱行為はたしかに社会秩序に対する挑戦だ。しかし、その逸脱によって、社会的な規範自体が修正され、共同体が維持されることも事実なのだ。市民革命や民主主義そのものが、絶対主義に対する逸脱から生まれたはずだ。女性解放運動なども、逸脱による既存秩序見直しという側面があるのではないか。しばしば主張される「多様な価値観を認める」というのは、逸脱を許容する態度ともいえるだろう。

 もちろん、このような論理が、地下鉄サリン事件のような非人道的行為を正当化するわけではない。事件の犯人は厳しい責任が追及されて当然だ。しかし、逸脱そのものを単純に危険視することは、差別意識を正当化させかねない。

 まだ事件の追及は始まったばかりだ。裁判所の判断もまだ下されていない。にもかかわらず、マスコミ報道は犯人および犯罪の背景を断定している。その異常性を、ごく単純に新興宗教やオカルト的興味と結びつけている。単なるスキャンダリズムに走っているだけだ。結局それは、真摯な宗教家に対する偏見を高めるだけだろう。

ステレオタイプによる本末転倒

「まじめなエリート学生」に対する批判も偏見を育てている。「世間知らずな連中があっさり感化された」という。しかし、洗脳は一種の技術であり、誰でもコントロールされる可能性があることを忘れるべきでない。

 エリート学生が多かったのは、教団側が選択的にそういう人物を標的にした結果にすぎないのではないか。強力な団体を育てるために、知力、闘争力、財力を持った人間を選択するのは、組織論の常識だろう。宗教団体としては不可解な行動とはいえ、組織の論理からすればまったくおかしくはない。ならば、世間の論調は本末転倒ということになろう。

 これが日頃劣等コンプレックスを抱くエリート学生に対する、世間あるいはメディアのささやかな復讐と考えるのは、果たして言い過ぎだろうか。そうでないにしても、少数派である「エリート学生」をスケープ・ゴートにして、自分たちの「正常さ」を確認する行動とも解釈できる。これは一種の差別行為だ。

 オカルト的興味に対する批判も高まっている。若者が「超」に対する非科学的な関心を抱くから変な団体にひかれ、こういう異常な犯罪が生じるのだ、というわけだ。ところが、アインシュタインは著書のなかで「我々の経験しうる最も美しいものは神秘感である」と指摘している。そもそも科学への関心というのは、人知を越えた「超」に対する好奇心から芽生えるものなのではないか。それに対する関心を批判するのは、とりもなおさず科学の否定につながるだろう。

 ここで問われるべき問題は、「超」に対してどういう行動を取るか、ということであろう。たしかに科学が権力と結びついたとき、恐るべき結果につながるケースが歴史上たびたび起こっている。ごく単純に考えれば、核兵器開発は典型的な例といえるだろう。科学そのものが常に両刃であることを忘れるべきでない。そこで問われるのは、科学をどう捉えるかという個人の倫理観なのだ。これは「超」への関心とは別問題である。

 イギリスやフランスでは、科学教育だけでなく科学史教育にも熱心だ。科学をこころざす本人が自分の役割を自覚できなければ、科学は凶器となりかねないからだ。それを避けるために、科学が社会をどのように変えていったかを、徹底的に自問させているのである。

ステレオタイプと差別・排斥

 最近の状況は、いわゆる「おたく」に対する偏見を助長した、連続幼女誘拐殺人事件報道に酷似している。いずれの事件とも、犯行自体は誰が見たところで明白な「悪」だ。しかし、ステレオタイプに基づいた報道によって、さまざまな要因が、ごく単純に「悪」と結びつけられてしまっている。

 誰もがサリン事件のような「悪」とは無縁でいたい。自分はそういう人間ではないことを証明あるいは確認したい。そういう素朴な願望とステレオタイプが結びついたとき、激しい排斥や差別が生じるのではないか。

 サリン事件を起こしたような者は断じて許されるべきでない。しかし、マスメディアの過剰な報道のもたらすステレオタイプが排斥や差別につながらないよう、問題点を常にはっきりと自問する態度は失うべきではないだろう。新興宗教、エリート学生、科学などを批判するまえに、それらがそもそもどういう性質を持つものなのかを十分に振り返ってみるべきだ。


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