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「国会月報」1995年9月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

メディアと世論(4)

ヒーロー番組の影響は?

 七月一九日付けの朝日新聞朝刊に、オウム真理教信者のさまざまな行動は、幼児期に特撮番組(いわゆる変身もの)をテレビで見すぎた影響ではないか、という指摘があった。当時の番組の脚本を書いたライター自身によるものだ。

 たしかに一連の事件、とくに当事者が当事者なりの「正義感」にもとづいて破壊活動をおこなう図式は、二五年前ごろ人気を博したヒーロー番組——「ウルトラマン」や「仮面ライダー」など——の物語に共通する部分があるかもしれない。二〇代後半や三〇代前半の信者たちが、幼少時にそれらの番組をみた確率は高いであろう。その行動とストーリーの類似性から影響を指摘することは、それなりに説得力のある主張だ。しかし、「特殊」な社会現象が生じると、すぐにメディア側に責任を押しつける傾向が強いこともたしかだ。一般市民だけでなく、当のメディア側もそれを認めることがしばしばある。ほんの数年前に起きた有害コミック問題は典型的な例といっていいだろう。連続幼女誘拐殺人事件でも漫画やアニメなどのメディア環境の影響が指摘された。

 メディアはおおきな影響力を行使する。社会現象に無縁どころか、相当なかかわりがあることは事実だ。とはいっても、その影響力が主体的なものなのか、あるいは二次的なものなのか、その都度チェックする必要があろう。

メディア効果の歴史的変遷

 コミュニケーション論で指摘されるメディアの効果は、その時代における代表的なメディアの浸透度に依存している。たとえば二〇世紀の初頭はラジオが普及した時期であり、マスメディアは世論そのものを形成するとまで考えられていた。ナチズムのメディア支配は悪例として有名だ。そしてアメリカでは戦争の募金キャンペーンなどがおこなわれ、メディアによる大衆支配が憂慮された時期でもある。

 ところが、第二次大戦後はむしろ、マスメディアの絶対的な影響力を疑問視する「限定効果説」が台頭するようになる。とくに選挙キャンペーンでの投票行動に、ラジオや新聞報道がそれほど決定的な影響を及ぼさなかったことが各種調査で指摘された。これが限定効果説の根拠のひとつになった。

 影響力低下の背後には多くの要因が作用しているが、一つにはメディアに対する「慣れ」というものがあるだろう。注目度の高い状態から、徐々に日常生活のなかの一部に組み込まれるようになった。メディアからの情報を絶対的なものとして捉えるのではなく、批判的に眺めることができるようになった、という側面があったように思われる。そしてまた、個人が自分の意見を形成する過程のなかで、まだコミュニティの役割が大きかったということもできるだろう。

個人的影響力

 マスメディアの影響を限定的に捉える理論フレームのなかでは、「個人の影響力」(パーソナル・インフルエンス)が世論形成に寄与すると考えられるようになった。情報はメディアからまず一部の人間に伝わり、その人がより多くの人に情報を伝達するというわけだ。

 一般に各コミュニティには「門番」(ゲイト・キーパー)と呼ばれる役割を演ずる者がいて、外部からの情報をもたらす機能を果たしている。自分たちの周囲にいる、噂好きの同僚やご近所さんを思い浮かべてみればわかるだろう。しかしながら、テレビの浸透につれて、個人を介する二段階の情報浸透説には、否定的な現象が相次いで見いだされるようになった。門番からの報告を待たなくても、テレビからさまざまな情報が入ってくるわけだ。その傾向は、ケーブルTVや衛星放送が普及するにつれ、さらに強まっているように思われる。

 青少年の行動にはテレビ・タレントの言動が影響するようになった。世論形成においても、マスメディアに登場する専門家の意見が強まるようになった。家庭不在やコミュニティ崩壊がこのような事態を招いたのか、あるいはその反対なのか、断定することは難しい。いずれにせよ、おなじ個人の影響力といっても、それを行使できるのは、メディアに登場する者という状況になりつつある。メディアが一種の「権力」であり、そこに登場する余地のある者が「権力者」となっているわけだ。

ふたたび強力効果説、その後は?

 このように、現代社会ではふたたびマスメディアの強力効果説が、コミュニケーション学者によって支持されるようになった。その代表が、本誌の連載でもたびたびふれている、ノエル=ノイマンの「沈黙の螺旋」理論だ。

 強力効果説が台頭した背景には、たしかにテレビという二〇世紀後半を代表するメディアの浸透がある。しかし、ここで社会学者の加藤秀俊氏の指摘を思い出す必要があるだろう。加藤氏は著書『人間関係』で次のように述べている。

「社会全体の中で、ごく一部の人間だけが情報の生産と流通を握り、大多数の人間は、もっぱら消費専門というのがもし実態であるとするなら、われわれの世界と『一九八四年』(注 : ジョージ・オーウェルの未来小説)の世界との間にある違いは、むしろ程度の差なのであって、質の差ではないようにも思える。受信専用人間の増えた社会というのは、けっして健康な社会ではないのだ」(加藤秀俊著『情報行動』中央公論社)

 個人どうしがさまざまな交流を実現する場や機会があれば、メディアは単に情報を伝えるだけのパイプかもしれない。しかし、各個人が孤立した状況にあって、一方的に疑似体験を味わうだけであれば、メディアはパイプ以上の役割を果たすことだろう。

 特撮ヒーロー番組は、たしかに子供たちを夢中にさせたかもしれない。しかし、それが遊びや話題のきっかけにすぎなければ、単なる「懐かしい思い出」にとどまっていたのではないか。メディアの影響力は安直な説明に用いやすい要素ではあるが、実際は各個人がそれにどう接したかまで検討する必要があることを忘れるべきでない。


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