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「国会月報」1995年11月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

現代社会の『**不全症候群』

数年前、評論家の中島梓氏(小説家の栗本薫氏と同一人物)は、『コミュニケーション不全症候群』という著作を発表した。これは現代日本社会があまりにも過密状態、競争過多状態になり、健全なコミュニケーションを維持するための空間的、精神的な「居場所」がなくなりつつある、という問題を提起したものだ。そして「居場所」を失った若者は、自己救済を求める。いわゆる「おたく」や「ダイエット症候群」は、その結末であるという分析だ。これなどは、コミュニケーションにおける距離感の「狂い」の問題を、鋭く分析した内容といっていいだろう。そして私はおなじ「コミュニケーション不全」の症状として、「いかがなものか症候群」と「リアリティ不全症候群」の二症状を提起したいと思う。今回はそのはじめの問題を扱う。

『いかがなものか』が語られるとき

 たとえば昭和天皇が重体のおり、忘年会をはじめさまざまな宴席が自粛された。そのときに、「このような時期に宴席などは『いかがなものか』」という表現がさかんに用いられていた。

 消費税反対のときもそうだった。
「子どものおやつにまで税金がかかるような税制は『いかがなものか』」

 最近のフランス核実験反対に関連したボイコットでもそうだ。
「核実験実施国の製品を買うなどということは『いかがなものか』」

 この『いかがなものか』という表現には、二つのメッセージが込められているように思われる。

 第一に、自分の価値判断の隠蔽だ。『いかがなものか』という表現では、はっきりと「悪いことだ」と明示したことにはならない。「悪い」という表明は、いうなれば自分の価値観を相手にぶつけることでもある。しかし、『いかがなものか』はそれを隠し、いわば相手に判断を委ねる態度だ。

 第二に、常識の強制、あるいは確認が込められている。「いかがなものでしょう?」という疑問文であれば、まだ意見を問う姿勢がある。しかし、『いかがなものか』は疑問文ではない。「あなたも当然私に同意しますね?」という圧力が込められているのだ。

 天皇の重体——べつに天皇に限らないが——が、国民にとってけっして好ましい事態でないことでないのはあきらかだ。税金とてなければないにこしたことはない。核兵器の有無を単純に問われれば、世界中のほとんどのひとは廃絶すべきだ、と答えるだろう。 『いかがなものか』が登場する背景には、このように、常識的には「このましくない」前提が存在する。

 しかし、宴会といっても、重要な来賓を招く儀礼上欠かせない接待もあるだろう。そのようなことまでが、即、天皇の様態をおもんばからない態度かどうかは、議論の余地があるはずだ。 「新税はすべて悪税」という箴言があるとおり、だいたいにおいて税金は民意の反発を招く。しかし、税金が現代社会の維持に不可欠なことは、誰もが知っている常識だろう。要は税金のシステムに、どのような是非があるかを議論する必要があるはずだ。

 核兵器の問題はもっとややこしい。このような大量殺戮兵器はないほうがいいに決まっている。しかし、すでに核は存在した。その核を使わせないために、お互いに「抑止力」という膠着状態の維持をはかることになった。核兵器の存在が核兵器の行使を抑えたという事実が、少なくとも冷戦下では存在したわけだ。

 核兵器は世界の安全保障システムの役割の一端を担っていた。これを廃絶するというのは、あらたな安全保障の仕組みを提案することにほかならない。核兵器はないほうがいい、しかし安全保障の問題は回避できない。ここにも当然ながら、さまざまな角度からの議論が必要になるはずだ。

 ところが、『いかがなものか』が登場すると、議論を一切放棄することになる。そしてごく単純に「あなたはよもやこれが悪いことだとは思いませんね?」という姿勢を示し、きわめて規範的な価値観を相手に強いることになるのだ。

議論回避が疑似イベント現象へ

 議論は価値観と価値観の衝突だ。そして妥協を見出すというのは、議論当事者の価値感がもう一段階高まったことを意味する。しかし、『いかがなものか』症候群では、価値観の衝突を徹底的に回避する。衝突ではなく、お互いが共有すべき規範に訴えようとする。なにしろ『いかがなものか』の対象は、それ自体、善悪の判断がはっきりしているために、こうした同意は同意を得やすいのだ。

 議論不在のこうした規範の圧力は、極めて単純化された行動につながりやすいのではないか。なにしろ『いかがなものか』の前には、同意は否定しか存在しない。そして否定は「悪」だ。宴会をすれば天皇の安否を気遣わないことになり、消費税反対を叫ばなければ悪税への加担者と見なされ、フランス製品をボイコットしなければ、核兵器を肯定していると指弾される。

 複雑にからみあう現実が、『いかがなものか』ですっ飛ばされてしまうのだ。天皇重体時には自粛ムードということがいわれた。『いかがなものか』症候群を象徴しているといっていいだろう。あれだけ反対のあった消費税は、結局導入された。当時の反対ムードはいったいどこに行ってしまったのか? つまるところ、反対は「運動」ではなく、スローガンを叫ぶ「イベント」にすぎなかったのではないか。そしてこれもまた、『いかがなものか』症候群のもっとも典型的な症状だと考えられる。

 さて、現代社会の要請、とくに環境問題などを考えれば、核兵器は確実に廃絶させねばならない。反核運動はぜったいに絶やしてはいけない。しかし、現在のフランス製品ボイコット運動には、どこか『いかがなものか』症候群の雰囲気が漂っているように思えてならない。反核運動を一時的な「イベント」に終わらせないためには、単に「反対!」のスローガンを唱えるだけでなく、いまこそ安全保障の問題にまで立ち返って議論すべきときだろう。


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