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オピニオン(1)2001年のインターネット
「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1995年10月号掲載
江下雅之

異文化交流の舞台

「良識派」の主張への疑問

「ネットワークの世界でも、社会とおなじ常識が通用するようにすべきだ」
「みんなでマナーは守ろう」
「不必要に他人を不愉快にさせるような発言は控えるべきだ」
 こうした指摘はネットワークではたびたび主張される。もめ事がおこると、「良識的」メンバーからこういう声が起こるものだ。たしかにごもっともな内容なのだが、あまりにも声高に主張されてしまうと、いささかぞっとするものがある。
 ぼくはなにも、非常識な言動を奨励するつもりはない。他人を不愉快にさせる意図を持った行為を肯定するつもりもない。しかし、常識というものが個人の背負う社会的・文化的な背景によってかなり異なること、そしてあらゆるメッセージは、誰かを不愉快にさせる可能性から逃れ得ないことを考えると、「良識派」の主張には、いくつかの疑問が生じるのだ。 「社会とおなじ常識」といっても、どの社会の常識なのだろうか。世の中にはいろいろな社会が存在し、我々はいろいろな社会に所属する。それは家庭であり、地域であり、会社であり、クラブであるかもしれない。それぞれに「常識」があるはずだ。
 良識派は、社会生活を営むうえで、普遍的な常識があるはずだ、と主張するだろう。しかし、「人を殺すべきでない」という「常識」でさえ、正当防衛という殺人行為が許容されている。つまるところ、ある行為が許されるかどうかは、意図によって判断される。意図の是非を判断する段階では、それぞれの社会の「常識」に依存せざるをえない。実際に正当防衛に対する意識は、日本とアメリカとで大きく異なることが知られている。

確認作業の必要性

「社会とおなじ常識が通用すべき」「マナーを守ろう」と主張するのなら、その場がどういう「社会」なのかをまずは確認しあうべきだ。でなければ、単に自分の常識を他人に押しつけることにしかならない。「不必要に他人を不愉快にさせる発言は控えるべき」とはいっても、その行為が「不必要」なのかどうかは、いつの時点で判明するのだろうか。こういう主張はフレーミング当事者でなく「善意の第三者」から発せられがちだが、一方的な断罪ではないと言い切れるのか。
 ネットワークとは、年齢、職業、思想信条・主義主張にいたるまで、きわめて広範囲の人が集まった世界だ。我々は異文化交流を行っているのだ、ということを自覚する必要があるだろう。そのなかでメッセージを発するなら、たしかに常識を心がけ、マナーに則し、他人を不愉快にさせないよう、万全な注意を払った方が建設的だろう。その拠ってきたるところは、つまるところ自分の知る常識であり、マナーであり気配りだ。

異文化交流のエネルギー

 これだけのことなら、ぼくの主張は「良識派」とおなじだと思われるだろう。しかしここで指摘したいことは、発信側はそれだけの配慮をしてもなお、自分の常識やマナーが通用するとは限らない、場合によっては再点検を迫られる、ということだ。
 同時にまた、受け手側にも柔軟な姿勢が求められる。誰かが常識はずれな言動をした。マナーを破った。不必要に他人を不愉快にさせていると思った。ここで怒るのではなく、相手が自分と異なる常識を持つのかもしれない、マナーの発想が違うのかもしれない、特殊な意図を持った発言行為なのかもしれない——こういう可能性に思いを寄せた方が、コミュニケーションはより豊かなものになるのではないか。
 つまるところ異文化交流とは、対話によっておたがいの常識を探りあうことだ。それにはかなりのエネルギーを要する。徒労感も味わうだろう。
 しかし、こうしたエネルギーの「浪費」がいやなら、閉ざされた交流の世界に留まった方が幸福だ。ネットワークではいろいろな価値観の人と交流できる。これは逆にいえば、どこに誰がいるのかわからない、ということだ。楽しいかもしれないが、同時にとても恐ろしい世界でもある。
 はたしてエネルギーの「浪費」は、意味のあることなのだろうか。少なくとも平板な個性に甘んじたくなければ、こうした「浪費」は不可欠なことなのだとぼくは考える。


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