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業界無常識論[3]
「月刊パソコン倶楽部」(技術評論社/発行)1997年9月号掲載
江下雅之

ネットワーク時代は「監視」社会か?

掲示板の破壊

 96年秋ごろのこと。お気に入りの電子掲示板にアクセスしてみたら、空白行が延々と続き、すべてのメッセージが消されていた。いわゆる「掲示板あらし」の仕業である。
 そこはとある風俗情報誌が主宰しているWebページの一部で、ソープランド愛好者たちが「体験談」を披露したり、ウンチクを傾ける場になっていた。自称現役ソープ嬢も何人か参加していた。
 この掲示板では本人を特定する情報をいっさい伏せることが可能だった。一応メールアドレスを表示する欄はあったものの、空白のままでも投稿できた。風俗体験談という性質上、こうした匿名性はいろいろな話題を展開するうえで必要だったのだろう。しかし、その分、ガードが甘かいといわざるをえない。
 破壊活動を三度経た後、この掲示板は大量の投稿ができないような仕組みに変更された。しかし、いまひとつ使い勝手が悪いという意見が相次ぎ、ふたたびもとの形式に戻されたのが97年のゴールデンウィーク明けのことだった。こんどは投稿者のIPアドレスが明示されるようになった。
 匿名性の問題はネットワークの普及初期段階から指摘されている。しかし、それが本当に意味するところと、多くの人が抱いている「匿名」の意味とのあいだには乖離があるのではないか。この掲示板の例でいえば、本人が開示しなければ本人を特定するすべのなかった最初の状態は、匿名性がたもたれていたといっていい。IPアドレスが表示されるようになってからは、すくなくともその投稿が誰の行為なのかを絞り込める。けっして本名を名乗るわけではないが、かといって匿名性が完全に保たれている状況とはあきらかに異なる。

実名主義は「相互監視」の発想

 国語辞典で「匿名」の意味を調べると、「実名をかくして知らせないこと」とある(広辞苑第四版)。
 パソコン通信に対するおきまりの批判のひとつに、「ハンドルによる匿名発言がバトルを招きやすい」といったものがある。「匿名」を辞書の意味どおりに解釈すれば、ハンドルの使用すなわち匿名といっても間違いではない。しかし、先の掲示板の例で示唆したように、はたして「匿名性」の問題をハンドルの使用に還元できるのか、そして実名だから問題発言が生じやすいのかといった疑問に対しては、別の側面からの考察が必要だ。 「実名をかくして知らせない」行為は、本人を特定できなくさせることであり、それは二つの要因で構成されている。ひとつは他者と区別できないようにすることであり、もうひとつは集団のなかから直接参照できなくさせることだ。
 パソコン通信のフォーラムでは、「実名論争」というむかしからおなじみのバトルがある。かいつまんでいえば、ハンドルによる参加は是か非かということだ。ハンドルを「非」と考える人の理由は、「責任のある発言をするなら実名を提示すべき」「コミュニケーションでは実名を名乗るのが礼儀」「オタク的な印象をなるべく排除したい」といったものがある。そして少なからぬ人は、最初の理由、つまり実名の提示と発言に対する責任は関係がある、と信じているのではないか。
 このような考え方は、条件次第では正しい。逆にいえば、ある条件が満たされないかぎり、単なる幻想にすぎない。条件というのは、そのコミュニケーションの場で、どういう相互監視が成立しているのか、ということである。
 人間は誰もひとつの社会にだけ所属しているわけではない。いろいろなグループに参加しており、そのひとつひとつにルールがあり、各人なりの参加方法がある。そのおおくの社会(あるいは場)では、本人を指し示す記号として実名が用いられていることは確かだろう。もちろん、あだ名や肩書きが本人の識別子として使われることもある。要するに、実名は比較的汎用性のある本人特定手段にすぎない、ということだ。
 ところがネットワークの世界では、そこに集う人の構成がおどろくほど雑多である。そこで実名を名乗ったところで、本人を特定する記号にはならないのだ。本人を他から区別し直接参照できる記号は、むしろIDやメールアドレスの方である。これらが開示されているかぎり、匿名性がたもたれているとはいえない。
 他方、ネットワーク上の場のなかには、ほかの場の延長として運営されているところもある。こうしたケースでは、一方の場での本人特定手段をネットワークでも採用すれば、参加者に対する制約が二重にはたらくことになる。一般に誰もその場を去りたくなければ、自分の行動に慎重になるものだ。ふたつの場が重なれば、トラブルをおこすことでふたつの場を去らねばならなくなる。いうなれば父母参観日の教室のように、複数の監視状況がはたらくわけだ。

監視塔

 インターネットの讃美者たちは、「誰でも世界中に情報を発信できる」という。しかしこれは、裏を返せば「世界中のあらゆる人に見られている{・・・・・・}」ということでもある。
 社会学者の大澤真幸氏は、著書『電子メディア論』のなかで、管理社会の到達点として、「パノプティコン状況」「超パノプティコン状況」といった用語を用いている(これらはNTT出版の雑誌『インターコミュニケーションズ』での浅田彰氏たちとの座談会でも繰り返されていた内容だ)。パノプティコン(=監視塔)という状況は、簡単にいえば、なにか行動をするときに「監視されているかもしれない」という心理的な制約を受けていることだ。われわれニッポン人には、「世間様」といいかえた方がわかりやすいだろう。
 現実には、個々人の行動を逐一監視することなどは不可能だ。よって、パノプティコン状況というのは、あくまでも「かもしれない」という点に本質があるといっていい。
 しかし、今日のように買い物でクレジットカードがあたりまえに使われるようになると、消費活動がいつのまにか企業のデータベースに記録されてしまう。警察庁のナンバープレート識別システムでは、誰の車がどこを走っていたのかを記録している。状況はすでに「かもしれない」ではなく、誰かがやろうと思えば、確実に「監視できる」状況になっている。これが「超」パノプティコン状況のあらましだ。

「酒鬼薔薇サイト」が教えること

 コミュニケーション手段がからむことで、この監視はより制約のきつい状況を形成する。
 神戸の殺人事件は中学三年生の逮捕という事態をむかえたが、捜査に平行して、いわゆる「酒鬼薔薇サイト」といったWebページがいくつか活動をおこなっていた。これらの内容は、新潮社のフォーカスが容疑者の顔写真を掲載した直後に過熱のピークを迎える。
 容疑者が少年とわかった段階から、いろいろなところで少年の実名をさぐる動きが生じた。実際にいろいろな人の名前、住所、電話番号を掲載する掲示板も出現した。こうした事態が発生するまで、サイトのいくつかはYahoo!のような検索エンジンでごく簡単に調べられた。Webを多少使い馴れた人なら、誰でも簡単にアクセスできる状況だたのである。
 しかし、掲示される内容が「非合法」的なものになると、検索エンジンからは姿を消し、日本のプロバイダからはクローズされる。しかし、すぐにアメリカのバーチャルサーバーに移行するなど、一ヶ所が閉じればべつの箇所で復活するといった追いかけっこが続いた。
 この原稿のなかでこうした現象の是非を論じるつもりはない。むしろ相互監視の実例としてとらえてみたい。
 フォーカスの写真掲示はスクープではない。少年の家には家宅捜査が入っており、近所の人や学校の同級生なら少年の名前や顔がわかるだろう。
 しかし、これまで一般人はたまたま知りえた情報を伝える術がなかった。ウワサや風説だけでなく衝撃的な真実も、ごく一部の範囲内にとどまらざるをえなかった。ところが、いまやわれわれにはネットワークがある。好む好まざるに関係なく、情報が瞬時にして伝えられる。われわれは「伝える手段」を持った。それは同時に、「伝えられてしまう手段」でもある。ネットワークが浸透した時代は、あらゆる人がお互いに監視しあう時代でもあるのだ。


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