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寄稿[1999年2月22日執筆]
「英国ニュースダイジェスト」(Digest News International/発行)
江下雅之

 引越の煩わしいところは、嫌でもまとまった時間と労力を取られるうえに、高い費用がかかっても、資産を増やすわけでも生活の潤いをもたらすわけでもないことだ。なるべく手間も費用もかけずにやりたいと思うのは当然のことである。これが海外引越となると、どんな手続をすればいいのかもわからない。そもそもどの業者なら信頼が置けるか、費用はどれぐらいかかるのか。日本から渡航するときは日本の業者を利用はできるが、帰国時となると現地の業者を利用せねばならない。もろもろの不安の上に、交渉時のコミュニケーションの不安も重なるものである。そういう下地があってか、日本人の長期滞在者が多いフランスでは、国際引越業務を行っている業者主催の「引越セミナー」が盛んである。日系企業の現地法人が行うこともあれば、日本人スタッフのいるヨーロッパ系企業が開催することもある。日本語新聞などにセミナーの日時や場所がしばしば掲載されるが、たいていは昼食付き、会によってはワインの試飲まである。もちろん参加は無料だ。
 先日、日本人スタッフが采配するヨーロッパ系国際引越業者のセミナーに参加してみた。参加してみて、非常に大きな違和感を覚えた。より正確には、参加者たちがセミナーの内容に違和感を覚えていないことが、私にはすこぶる意外だったのである。
 セミナーが開催された場所は、日系航空会社のオフィスにある会議室だった。狭いスペースには三十人分ほどの椅子が用意され、開始予定時間頃には満席となった。参加者の大半は「駐在員の妻たち」といった雰囲気の人たちだったが、バカンス期間中でもない平日の午前十時という日時を考えれば当然のことだろう。私以外の男性は留学生風の者が二人、サラリーマン風が一人やや年配の方が一人であった。参加者は二つある横長のテーブルを囲むように座り、各人に資料とメモ用紙、筆記道具が配られていた。資料の内訳は、業者の会社案内、日本での提携先業者の概要、引越保険の案内、通関申告書の見本、免税品店からの案内など。分量はかなりある。正面のテーブルには業者の代表者とこの日の司会役を務める社員、日系航空会社の人、免税店のスタッフが並んでいた。
 予定時刻よりも若干遅れてセミナーは始まった。まずは型どおり、司会役から正面に並ぶ人たちの簡単な紹介があった。続いて引越業者のプレゼンテーション・ビデオが十五分ほど映し出される。内容はヨーロッパに本社を置く同社の活動を紹介するものだ。ここまでは前置きで、ビデオが終わると業者の日本人代表者より、国際引越業務の基本的な流れが説明された。約一時間ほどのその説明、話は明確でわかりやすかったといっていい。電話で連絡をすれば、最初から日本人スタッフが対応に出る。見積は代表者が必ず行い、引越当日にも日本人スタッフが立ち会ってくれる。警察への道路専有の届け出から駐車場の確保、さらには帰国売りの家具の配送までも引き受けてくれるという。当然ながら引越保険もかけてくれるのだから、この業者に依頼すれば、自分からはほとんど何もしなくても海外引越ができてしまう。業者との連絡さえもすべて日本語で行えるのだから、至れり尽くせりといっていい。
 電話一本で依頼すれば後はお任せ、ということはわかった。ではそのお値段はいかほどかと思ったところ、説明内容は引越免税へと移った。細かな契約条件は最後にするのかな、と思いながら聞いていたが、引越免税手続の説明の後を引き継いだのは、今度は航空会社の担当者。続いて免税業者のスタッフからお買い得品についての説明があった。帰国前に買い物をすれば荷物が増えるだけだが、滞在中でないと買えないもの、海外にいるからこそ安くかえる品々もあるだろう。そういう需要を考えれば、免税業者が引越業者のセミナーに関わっていたとて不思議はない。
 さて、時間はいつのまにか正午を過ぎ、マイクは引越業者の代表者氏に戻った。これからようやく契約に関する細かな話を聞けるのかと思ったら、説明はそこで終わり、質問の時間となった。これでは積算根拠について質問の嵐になるだろうなと思ったところ、私の斜め前に座っていた女性が即座に手を挙げた。がしかし、彼女の質問は引越免税の細かな手続に関すること。もちろん誰が何を質問しようと自由だが、彼女に続いて質問した人もまた、免税についての確認だった。他に挙手した人はいない。誰も費用には関心がないのか?
 前二人に続き、今度は私が質問した。もちろん内容は積算根拠についてである。基本料金表はないのか、モデル料金のようなデータはないのか、かなり細かな点までも相当しつこく尋ねたが、結果的に満足できる情報は一つも得られなかった。それどころか業者側からは、費用に関する質問が出るとは思わなかったという話が出たくらいである。たしかに周囲の参加者の気配をうかがうと、誰も積算根拠を知りたがっている様子はない。私の質問に業者が満足のいく回答をしなかったのは、業者の手落ちや準備不足ではなく、むしろ私の側が場違いなことを聞いてしまったような雰囲気だったのである。
 この種のセミナーの主対象は、おそらく家族ともども滞在している企業駐在員であろう。一件あたりの引越費用もかなりの額になるはずだ。でなければ、食事やらワインの試飲までも付いた無料セミナーなど開催できまい。駐在員の引越であれば、費用は会社が負担してくれる。だからセミナーで細かな料金帯系を説明しても意味がない、それは業者と会社の経理部との問題だ、という発想につながったのかもしれない。その点では、引越業者の姿勢には一応の一貫性があると認めてもいい。とはいえ、最終的に誰が費用を負担するにしても、どういう根拠で費用が算出されるのかを事前に把握しておくことは、引越当事者の義務ではないのか。コストの発生源をきっちり把握できるのは、引越の当事者である業者と自分たちだけである。セミナー担当者は、複数の業者から相見積を取った上で依頼先を決めればいいと語った。しかし、具体的な契約条件がわからなければ、細かな比較などやりようがない。引越のように多く作業が混在するサービスなら、利用者はなおさら積算基準を知りたくなるものではないのか。セミナー参加者たちは、単に面倒な手続をせず発注できることがわかりさえすればよかったのか。
 一切合切をお任せできるブラック・ボックス化されたサービスは、依頼する方にしてみたらお気楽きわまりない。しかしコスト意識を持つ者であれば、そこに透明性を求めるのが道理である。企業は損をしてまで商売はしない。どういうサービスが受けられるかを知ることは、何にいくらかかるかを知ることでもあるはずだ。サービスを直接利用する者がそういう点に無関心であるというのは、あまりにも当事者意識が希薄すぎやしないか。ヨーロッパ社会は自己責任の原則が貫かれている、とはよく言われることだ。しかもそれは、日本社会が学ぶべき点として語られることが多い。一度のセミナー体験から過剰に一般化する愚は避けねばならないが、少なくとも契約の最も重要な項目を把握しようとしない参加者の姿勢に、自己責任の原則を見出すことはできない。

※ この原稿のみ、英国ニュース・ダイジェスト紙に掲載


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